【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(51)】「無我ワールドプロレスリング」は苦しい経営が続き、妻の持ち出しで何とかやりくりしていた。そんな中で迎えた2007年10月18日の後楽園ホール大会後、西村修が同日の全日本プロレス代々木大会に登場し、武藤敬司と握手。その翌日、征矢学とともに全日入団が発表された。

西村修(左)と熱い師弟を繰り広げた(07年5月)
西村修(左)と熱い師弟を繰り広げた(07年5月)

 彼らに、俺と同じようにチケットを一枚一枚売りに行かせたりしたことはない。新日本時代と同じは無理でも生活できる分の給与は渡していたんだけど、彼らは彼らで試合数の少ない無我では将来性を見いだせなかったのかもしれない。自分の可能性というものを求めて、他団体に行ったんだろうしね。

 最初は寝耳に水だったし、俺も言い訳のようなことは口が裂けても言えない。でも、心の中でははらわたが煮えくり返っていた。辞めた原因の中の一つとして俺の家族のことを悪く言っている記事もあって、こういうところが俺と西村の約18年にわたる確執につながってしまった。今でも一言一句覚えているが、その言葉を口にすることもしたくない。自分の身銭を割いて無我に投資してくれていた妻のことを思うと、いたたまれない気持ちになった。

 あそこで俺が売られたケンカを買ってしまうと、プロレス界のイメージも悪くなってしまうし、お互いが損をしてしまう。だから西村を追いかけるようなことはしなかった。でも、後々になって彼が「無我」を商標登録していたことを知った。別に自分がうかつだったとまでは思わなかったけど、シャクに障ってしまった部分だった。

 こうした経緯から絶縁状態が続いた西村は、24年3月に食道がん(扁平上皮がん)が発覚し、25年2月に53歳の若さで亡くなってしまった。彼は彼で、俺との確執はずっと重荷だったと思う。どこに行ってもそれが付きまとうしね。

 この問題に対して、俺さえ遮断すればいいことだからと思っていたから、自分からは一切触れてこなかった。いろいろな人が間に入って「和解してもらえませんか」「どこかで試合を…」と言ってきたけど、そのたびに「その話はしないでくれ」と頼んできた。ただ彼が病気になり、状態があまり良くないと聞いているなかで「一度お会いしたい」という意向が伝わってきた。もう怒りというものはなく、残された時間が少ないならば…と思っていたところだったけど、結果的に最後まで再会は果たせなかった。

 西村の葬儀で「君に無我をささげます」と弔辞を読んだ。自分が発案した二文字だけど、彼なりに「無我」を掲げてプロレスを追求していた。別々の道を歩むことになった後も自分の生きざまを貫いてきたのであれば、その二文字は彼のものでもあると思っている。