【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(49)】2002年1月に武藤敬司らが新日本プロレスから大量離脱した余波は大きかった。長州力も2月に引責で現場監督を解任され、5月に退社。後にWJを旗揚げする。当時は複雑な心境だったけど、社長だから新日本が続く限りは出るということはありえないし、離脱するつもりもない。「死ぬ時はこの船と一緒に沈めばいいんだ」と割り切っていた。

 思い起こせば橋本真也の解雇、武藤らの大量離脱、そして長州と、社長時代は仲間たちとの別れが相次いだ波瀾万丈の5年間だった。前回も話したように、当時は辞めていく人間を説得するような雰囲気じゃない。彼らは次の目標に走っているし、こっちは残ったメンバーで興行が組めるのかを考えるので精一杯だったからね。

 社長時代はストレスもあって身も心もボロボロ。欠場中の04年1月には胆のうを摘出する手術を受けた。それ以前には胆石の痛みがひどくて、地方大会で会場からタクシーで最寄りの内科に行って痛み止めの注射を打ってから試合をしたことが何度もあった。健康管理をしっかりすることもままならなかった。

 そして04年の6月23日、株主総会で社長を解任された。アントニオ猪木さんの側近から伝えられた時は残念というか寂しさを感じた。5年間いろいろなことがあって、挙げ句の果てに結末がこうかよ、とね…。社長を降ろされるということよりも、こんな状況になった新日本プロレスをまだ傷つけるのか、という気持ちだった。家族もしょんぼりしていたし、俺も悔しさのあまり家族の前で泣いたよ。

 今振り返っても、当時は本当に新日本プロレスの暗黒時代だった。もったいないよね、あれだけ一世を風靡した新日本プロレスもテレビ放送は打ち切りの噂が絶えず、多くのプロモーターも離れてしまった。

 後任は経営コンサルタントの草間政一が務めた。俺からすれば「どこの誰よ?」といった感じで、誰が連れてきたのか、誰の知り合いかも分からない。俺は新日本プロレスのトップはレスラーが立つべきだと思っていたから、02年から現場監督を務めていた蝶野正洋であれば気持ちよく社長の座を譲れていた。役員会でも「何で蝶野じゃないのか」と名前を挙げたけど、何の返答ももらえなかった。もしも蝶野が第4代社長になっていたら、レスラーたちの支えになれていたと思う。

 周囲からはよく「優柔不断」と言われたが、誰が社長でも当時の新日本は猪木さんと現場の板挟みは避けられない状況だった。本当にいろいろなことがあったけど、旗揚げから携わってきた新日本プロレスを守るために必死にやってきた5年間だったと、今でも胸を張って言うことができる。