【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(47)】新日本プロレスで選手兼社長時代に常に周辺に付きまとっていたのが、現役引退を巡る問題だ。1999年6月の就任時から、アントニオ猪木さんには「レスラーを辞めて社長業に専念しろ」と言われていた。
自分自身は割り切れない気持ちがあっても、オーナーである猪木さんの命令でもあったわけだから「仕方ないのかな…」となって、2000年5月5月の福岡ドーム大会から「エピローグ・オブ・ドラゴン」がスタートした。猪木さんの「ファイナルカウントダウン」と同様の引退ロードになるはずだった。しかしこれは01年2月3日札幌大会の藤原喜明戦までの3試合が終了した時点で自然消滅した。
猪木さんからしたら「何で俺の言う通りにしないんだ」というのはあったでしょう。でもこんな形で現役にケジメをつけたくない、辞めたくないという気持ちがだんだん強くなってきて、最後はそれが勝った。もしもあの時、猪木さんがオーナー権限を発動し「引退しないなら社長を降りろ」と言われたら、社長を退任したと思う。そのくらいまだ現役でいたいという気持ちが強かった。
その後は社長業も多忙になり、03年は1月4日東京ドーム大会から試合に出場できない日々が続いた。猪木さんや周りから引退を迫られる状況はまだ続いていて、11月には翌年1月4日東京ドームでの引退も示唆していたが、現役への火は消えていない。猪木さんの顔を立てつつも大事なところは濁していたから社長時代はよく「優柔不断」と言われていた。
そんな中、大みそかに猪木さんが日本テレビと組んで「INOKI BOM―BA―YE」(神戸ウイングスタジアム)を開催した。この興行の企画として俺は「引退試合」を打診されて、やむなく会場に行くことになった。引退する気はないんだけど、すっぽかしたら興行の目玉がなくなってしまうから、何とか場を収めようとね。いい男だなあ、俺は(笑い)。
当日はリングシューズを履かずジャージー姿で登場してマイクで猪木さんとやりとりしていると、突然襲いかかられて5分間のエキシビションマッチが始まった。俺がスリーパーで猪木さんを失神させて最後は猪木さんがマイクで締めくくったんだけど、放送では「藤波引退試合」とテロップで紹介されていた…。
その後、俺は正式に引退を撤回することになるんだけど、今思い返しても猪木さんは俺が社長のまま現役でいることに対し、ジェラシーではないんだろうけど、思うところがあったんだろう。坂口征二さんも社長就任を機に引退していたし、レスラーと新日本プロレスの社長を両立できるのは自分だけという思いが、もしかしたらどこかにあったのかもしれないね。













