【プロレス蔵出し写真館】オーナー、アントニオ猪木の度重なる介入で、新日本プロレスは〝暗黒時代〟へと浸食が始まっていた。
今から25年前の2001年(平成13年)3月20日、代々木第二体育館に猪木が率いた〝猪木軍〟がリングジャックした。
ZERO―ONEの橋本真也、安田忠夫、そして藤田和之だ。藤田は前年、総合格闘技「PRIDE」のリングに上がり人気が爆発してした。初戦で〝オランダの裏番長〟ハンス・ナイマンを撃破し、〝霊長類最強の男〟マーク・ケアーから番狂わせの勝利を挙げた。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
その藤田の新日プロ復帰が決まり、4・9大阪ドームへの出場が発表された。藤田は佐々木健介とのIWGPヘビー級王座戦を望んでいた。しかし、健介は3日前の17日、愛知県体育館大会でスコット・ノートンに敗れ、王座を失ってしまう。
その報を聞いた後、藤田は「ふざけるな。これでは大阪ドームに行く意味がなくなったし、出ませんよ」と語っていたが、この日リングに登場すると「佐々木さんは負けてしまいましたが、仕方がないから出ます」と改めて出場を宣言した。
健介はエプロンから、いまだに語り草の〝迷言〟で応える。
「藤田、正直、スマンかった。ベルト」
王座から陥落したことを謝罪した(写真)。
藤田は「新日本プロレス、本気でぶっ潰してやるよ」。そう捨てゼリフを吐きリングを下りた。
健介のまさかの謝罪にファンはすぐさま反応した。2ちゃんねる掲示板に健介のアスキーアート(※キーボードで入力できる文字や記号を並べて絵や図形を表現する手法)が登場した。ありがたくない〝呼称〟で呼ばれたのも、このころだろうか。
3日後の3月23日、都内のホテルでマスコミに囲まれた猪木は不機嫌そうに「『スマンごめん』なんて謝ってる奴と藤田がやったって面白くもおかしくもない」と断罪した。
新日プロに対しても「全体の意識が低下しちゃった。オレが言ってることを気づかなきゃ腕ずくでやるしかないなっていうのが今回のこと。そこで気づかなきゃしょうがねぇ。時代とともに消えていきゃいい。そういう運命なのかもしれないし」と新日本プロレスの〝消滅〟まで口にした。
猪木は新日プロが全日本プロレスと交流したことに嫌悪感をあらわにしていた。大阪ドームのカード変更を藤波辰爾社長、現場監督の長州力に要求していて、結局、ノートンVS藤田、健介VS橋本に変更された。
さて、大阪決戦は藤田がノートンを破り王座を奪取。健介は橋本に敗れ、海外へ総合格闘技の修行へ飛び立つことになる(健介は坊主頭にイメチェンして帰国。藤田との初対決は同年10月4日、東京ドームで実現したが6分36秒、TKOで敗戦した)。
ところで、その後、健介は翌02年10月6日に新日プロを退団して03年に長州のWJプロレスに入団。WJが崩壊する前、03年12月9日の新日プロ大阪大会に突如、姿を現した。館内は「帰れ」コール一色だった。復帰の噂が浮上した段階で「健介不要論」を口にしていた永田裕志がリングで対峙して舌戦を展開した。
永田は「誰が呼んだんだ。会社の人間か。ふざけんな。今夜、中邑(真輔)という新チャンプが誕生した。健介の居場所なんてない」と一刀両断にした。
そして、健介との対戦が決まると「みそぎのひとつもないのにノコノコとウチのリングに上がってくるとは何事だ。あの場でこそ〝正直スマンかった〟って言うべき」とウイットに富んだ切り返しをしてみせた。
「そもそもあの男、なんで帰ってきたんですか。〝いいんだね、やっちゃって〟」。永田も記憶に残る〝名言〟を残したのだった(※翌04年1月4日、東京ドームでの対決は大流血戦を展開した)。
健介を戻したのは執行役員だった上井文彦氏。
上井氏は当時を振り返り「(スマンかった発言は)オレ、会場の後方で聞いてた。本当にマイクアピール下手くそだなと思った。ラッシャー木村さんの『こんばんは』以来じゃないかな。健介は口下手。一生懸命考えて出たセリフがアレだった。本当に藤田に悪いと思ってるんだよ」と語る。
「(猪木会長がカード変更)絶対そうなるよ。会長だってそんな(言い方)大嫌いだから」と明かし「誰もアドバイスする人がいなかった」と推測した。
もし、妻の北斗晶にアドバイスを求めていたら、〝気の利いた〟マイクアピールで、観客の喝采を浴びていただろう。健介のこのマイクも、暗黒時代を象徴する出来事のひとつだった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













