【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(45)】橋本真也を説得し、リング復帰してもらった後の1999年6月24日、正式に新日本プロレスの社長に就任した。オーナーのアントニオ猪木さんから、社長に指名した理由や経営方針などを含めた説明は一切ない。就任後も猪木さんから直接の指示があったことはほとんどなく、側近やマスコミを通じてその意思が伝えられる、いびつな関係が続いていた。

自ら橋本(左)復帰戦の相手を務めた(00年10月)
自ら橋本(左)復帰戦の相手を務めた(00年10月)

 そんな中で、支えになってくれたのは、前社長で新たに会長に就いた坂口征二さんだ。就任前に電話をかけて、報告を入れると「何かあったら相談に乗ってやるから」と言ってもらい、社長時代は事あるごとに坂口さんに話を聞いてもらっていた。まさに本当の「相談役」だよね。

 社長時代は新日本プロレスに負の連鎖が続いてしまった。復帰した橋本は10月11日の東京ドーム大会で因縁の小川直也と再戦したが、リベンジに失敗。2000年4月7日の東京ドーム大会では「負けたら即引退」を掲げて小川と戦い、またも敗れてしまった。

 この試合はテレビのゴールデンタイムで中継されたため、簡単に復帰できない状況となってしまったが、会社としてはこのまま橋本を引退させるわけにはいかない。10月9日東京ドーム大会第1試合での復帰を打診。俺が対戦相手を務めた。当時は社長業に追われて練習がなかなかできず、コンディションは最悪だったが、自分のことよりも橋本をリングに戻すことが最優先だった。

 再復帰後も橋本の団体への不信感は消えなかった。シリーズへの帯同を拒み、他の選手と別行動を要望してきた。そこで頭に浮かんだのが「ドラゴンボンバーズ」や「無我」で頓挫した部屋別制度構想だった。橋本が新たに団体内にユニットをつくって独立することで、新日本にとっても刺激になるし、本人も復活すると考えた。専属の社員を1人付けて、港区内に道場も用意し「新日本プロレスZERO」が発足した。

 ところが橋本は想定外の行動に出てしまう。毎日来ていた報告がだんだんなくなってきて、気が付いたら独断で会社登記し、三沢光晴が旗揚げしたプロレスリング・ノアと会社に無断で交渉を始めていたのだ。橋本と新日本の新たな関わり合い方を模索してきた俺からしたら、もう立場がない。この規律違反に対して幹部会が開かれ、橋本には解雇処分が下された。

 橋本も橋本で新日本内のしがらみというか、やりづらさをずっと感じていたのだろう。だったらスパッと「自分の団体を…」という方向にかじを取った気持ちも理解できなくはない。闘魂三銃士の中で一番の猪木信者だったし、今になってみるとアイツは常に新日本らしい生き方を求めていたんだろうなと思う。