【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(41)】40歳になって迎えた1994年になると、新日本プロレスはますます世代交代が進んでいた。IWGPヘビー級王者の橋本真也が武藤敬司、パワー・ウォリアー、蝶野正洋、スコット・ノートンを相手に防衛を重ねるなか、4月4日の広島グリーンアリーナ大会では俺が挑戦者というシチュエーションになった。

 すでに長州力は現場監督として一歩下がったような状態で、アントニオ猪木さんも一線を引いていた。本来ならもう彼らの時代なのだから、俺からしても任せたい気持ちもあったんだけど、ファンはそうはいかない。「なぜ藤波は迎え撃たないのか」となるし、それは現役である以上は当然の話だよね。

 武藤、蝶野、橋本はそれぞれ違った才能を持っていた。そんな中で橋本は「闘魂三銃士」と呼ばれながらも常に一匹おおかみのような男だった。他の2人よりもトップに立ちたいという気持ちがものすごく強く、試合の時は目の色が変わっていたね、アイツは。

 試合は、橋本の強烈な蹴りを受け続ける展開になった。今のようにレガースはないから、試合後は体に橋本のリングシューズの痕がいっぱいついていた。前田日明の蹴りは重くてしなりがあったんだけど、橋本の蹴りは思い切り体重を乗せてきたから威力があったね。レスラーって不思議なもので、相手がつぶしにくると「やってみろ」って気持ちになってしまうんだよ。今になって振り返ると、かわせばよかったものを、よくもあんなに蹴りを受けてきたなと自分でも思う。

 しかし「肉を切らせて骨を断つ」とはよく言ったもので、最後はグラウンドコブラツイストで逆転勝利を収めて、2年3か月ぶりのIWGP返り咲きを果たした。この試合の後には「俺はこうして生きているんだから橋本は詰めが甘い。殺せるものなら殺してみろ」と猪木さんばりのコメントを出した。あれは師匠を意識したというよりは、自分に対してのゲキみたいなものだった。前田しかり闘魂三銃士しかり、矛先を向けていた猪木さんがポッと戦線から引いたものだから、俺が代わってそれを全部受ける立場になっていた部分があったんだね。

 思い起こせば長州の「名勝負数え唄」の始まりも広島だったし、ファンの熱が高い思い入れのある土地になっている。しかし約1か月後の5月1日福岡ドーム大会で行われた橋本との再戦に敗れ、この時の王者時代は短命に終わってしまった。

 この橋本と抗争していた時期に人生の節目となる旅があった。フジテレビ系のドキュメンタリー番組「感動エクスプレス」で、イスラエルのエルサレムを訪れたことは、後のプロレス人生に大きな影響を及ぼすことになる――。