【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(44)】アントニオ猪木さんが引退した翌1999年6月24日に、新日本プロレスの3代目社長に就任した。経緯としては5月にオーナーである猪木さんの側近となっていた支援者から連絡があって、社長就任を打診された。

 自分がこの話を受けないと、社外から社長を招聘する方針だという。旗揚げから関わってきた新日本トップに、レスラーではない外部の人間が立つことは避けなくてはならないと思いオファーを受けることにした。それまで社長だった坂口征二さんは会長に就任した。

 なぜ急いで坂口さんから交代になったのか詳しくは分からないし、うかつなことは言えないけど、一つのキッカケ的なものは、1月の東京ドーム大会で行われた橋本真也と小川直也の試合だったと思う。橋本が完膚なきまでに叩きのめされ、事実上KOされた一戦は大きな波紋を呼び新日本に危機的状況をもたらしていた。俺から見ればあの試合は、橋本にも警戒心が足りなかったというかね。レスラーはどういう形であれ、技を仕掛けられてきたら受けなければいけない。あれだけ体を絞り、覚悟を持ってリングに上がった小川が一枚も二枚も上手だった。

ドーム大会で小川(上)に完敗した橋本(99年1月)
ドーム大会で小川(上)に完敗した橋本(99年1月)

 この試合で「破壊王」のイメージを完全に失った橋本は、以後欠場が続いた。新たに会社のトップに立つ自分が最初にやらなければならない仕事は、橋本を復帰させることだと考え、就任前から説得を試みた。橋本はストロングスタイルの継承者として新日本の未来に絶対に必要なレスラーだと思っていたからだ。

 当時の橋本は精神的なショックが大きく、新日本に対するアレルギーのようなものがあった。引退する気持ちまではないんだろうけど、新日本のトップを走ってきた人間がテレビで大々的に醜態をさらしてしまったわけだから、顔向けできない、街を歩けないの感覚だったのかもしれない。電話をかけてもなかなか出ないし、家に出向いても家族がいる前では腹を割って話せないだろう。

 それでも粘り強く連絡を取ると、ようやく会うことに応じてくれた。人目を避けるため、深夜のファミリーレストランに呼び出して何回か話をした。最初のうちは俺が「お前を守るから」と言っても聞く耳を持ってくれない。でも2回、3回と会ううちに少しずつ打ち解けて「このままファンから逃げるような形でやっていくのか」という話ができるようになった。

 さらに米国・ロサンゼルスで心身ともにリフレッシュもさせて、再びリングに上がるところまで心を開かせることができた。橋本は6月8日の日本武道館大会での天龍源一郎戦で約5か月ぶりに復帰を果たした。しかし安堵したのもつかの間、俺と橋本の間にはここから波乱の展開が待ち受けていた――。