【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(50)】社長解任から約1年半後の2005年11月、新日本プロレスの筆頭株主であるアントニオ猪木さんはゲームソフト開発会社の「ユークス」に株式を売却。経営難に苦しんでいた新日本は、ユークスの子会社として再出発を図ることになった。

無我に参戦する(左から)ヒロ斎藤、吉江豊、西村、藤波、後藤達俊、竹村豪氏、長井満也(06年7月)
無我に参戦する(左から)ヒロ斎藤、吉江豊、西村、藤波、後藤達俊、竹村豪氏、長井満也(06年7月)

 会社の身売りにもかかわらず、まったく寝耳に水。話を聞いた時はショックだった。猪木さんは猪木さんなりの考えがあって行動を起こしたんだろうけど…。1972年の旗揚げからずっと全力で、特別な思い入れを持ってやってきた新日本プロレスがなくなるわけでは決してないんだけど、猪木さんがいなくなるということは、俺にとってあまりにも大きな出来事だった。気持ちの糸がプツリと切れてしまった感覚だった。

 俺はポーカーフェースができないから、妻は社長時代から悩んでいる姿をずっと近くで見てきた。辞めることを考えていると相談すると「もういいんじゃないの? 十分夢をかなえてもらったし、自分のやるべきこともやったでしょう」。後押しを受けて、最終的に決断し、06年6月30日に新日本を退社した。

 会社を出ていく時はむなしかった。社員に対してなんて声をかけたのかも覚えていない。「みなさんお疲れさまでした」って言ったのかな…。みんな下を向いて、それぞれの仕事をしていた。無視というわけじゃないんだけど、そうせざるを得ない状況というか、かける言葉が見つからないという感じだった。

 退社した後は、新団体「無我ワールドプロレスリング」に参加した。この年の1月に退団していた西村修、田中秀和リングアナウンサーから合流を要請されていたんだけど、最初に話を聞いた時は、まだ退社を決めていなかったから答えようがなかった。周囲からは足並みが揃っていたように見えたかもしれないけど、まったくそんなことはなかった。

 とはいえ、俺自身も気持ちに穴があいたような状況だったから、彼らの熱意に押されて「協力したい」と思うようになり、同年8月2日の東京・後楽園ホールでの旗揚げ戦に出場した。当初は裏から興行をサポートするつもりだったが、最終的には俺が代表取締役とならざるを得なかった。単に自主興行を打つのと、興行会社を起こすのは違う。おカネは100%藤波家の出資で、会社組織となる際にウチで会社登記をしたからね。

 無我では07年4月にかつてのライバルだったチャボ・ゲレロの日本引退シリーズを開催するなどしてきたが、経営は苦しかった。業界に団体が増えつつあった時だし、ファンからの支持も簡単には得られない。選手たちにも生活があって団体として厳しい状況が続くなか、ある“事件”が起きた――。