【赤ペン!】毎年、交流戦のたびに、パにはDHがあってセにはないという違いが議論の的になる。DH肯定派は「セはパよりも遅れている」と言わんばかりだ。

宮崎キャンプでタイヤをバットで叩く長嶋さん(63年2月)
宮崎キャンプでタイヤをバットで叩く長嶋さん(63年2月)

 ところが、DHを導入しようとしたのは、実はパではなくセの方が先だったという。第7代コミッショナーの下田武三氏(元最高裁判事)が、著書「プロ野球回想」にこう書き残しているのだ。

「1973年に大リーグでア・リーグがDH制を採用した直後、日本でもセ・リーグがまずこれに着目して、その採用を検討していた。ところが、パ・リーグがセ・リーグに断りなしに突如、75年にDH制を先どり採用してしまったとして、DH制の問題については、セ・パ両リーグの間に大きな感情的しこりが発生して、それが未だに今日まで残っている」(抜粋)

 当時、セのDH導入案をつぶさに取材していたのが東スポの記者・江尻良文さんだ。江尻さんによれば、DH導入を主張した急先鋒は巨人。最大の目的は、引退を目前にした長嶋茂雄の選手生命の延命にあったという。

 現役生活の晩年も長嶋人気は依然高く、ラストイヤーとなった74年の球宴ファン投票でも12球団1位。DHで守備の負担をなくし、打撃に専念すれば、長嶋はまだ活躍できると巨人の首脳は考えた。

 ところが、巨人V9(65~73年まで9年連続リーグ優勝と日本一)の名将・川上哲治監督が「DHは邪道だ」として猛反対。その上、長嶋には9連覇した73年を最後に引退するように勧めていた。「生涯打率3割のままで身を退いたほうが、長嶋茂雄の金看板に傷が付かないで済むから」と。

 一方、パでDH導入のきっかけをつくったのは、通算代打本塁打27本の世界記録を持つ阪急(現オリックス)高井保弘である。くしくも長嶋が引退した74年、高井は球宴第1戦で史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を放ち、MVPに選ばれた。

 この活躍を見た米国の野球記者が「日本もDHを採用して高井にもっと活躍の場を与えるべき」と毎日新聞に寄稿。これを機にパ6球団は協議を重ね、翌75年からのDH導入を決定したのだ。

 長嶋さんは生前、NHKのインタビューで「引退を74年まで延ばしたのは自分の意思」と明かしている。「まだやれるなら打順は6番でも7番でもいい」と、川上監督に食い下がったそうだ。

 とすると、セにDHが導入されたら、長嶋さんは喜んでやっただろう。「DH・長嶋」は今の大谷のようにファンを沸かせていたかもしれない。