2025年6月3日に亡くなった長嶋茂雄氏を偲び、同氏の第2次巨人監督時代を振り返った連載「ハダカの長嶋巨人」。常に話題の中心にいた「ミスター」を取り巻く人たちを含めた群像劇を、当時の巨人担当記者がつづります。
【ハダカの長嶋巨人#18・槙原寛己の巻】
長嶋巨人、投手3本柱の一人にして、のちに守護神に転向。完全試合投手としても知られるのが、マキさんだ。
うなりを上げる剛速球は、当時を知る誰もが「一番速かった」と口を揃えるほど。とにかく球史に残るすごい投手には違いないのだが…。「天は二物を与えず」ということなのか「槙原はなあ、ボールを投げる才能は天才的なんだが、それ以外はまるでダメ。守備や打撃にはセンスのかけらも見られないんだから」ともよく言われた。阪神が優勝した1985年、あの甲子園球場でのバックスクリーン3連発を被弾するなど、トホホなエピソードに事欠かないのもまた、マキさんらしい。
レーシック手術をすればそれに失敗。ハリ治療に失敗し、肺に穴が空いてしまったりと、マキさんはちっとも悪くないのに、そんな不幸もついてまわった。1998年途中からストッパーに転向した後は、あまりに打ち込まれるものだから「ダメ魔神」との呼称が定着。もちろん本紙も容赦なく書きまくったことで「東スポはオレに何かうらみでもあるのかよ!」とボヤかれたこともあった。
マキさんが現役引退後、いまだ巨人のユニホームを着ていないことについては「堀内監督の後任に星野監督の名前が挙がった際、巨人OBでは数少ない賛成コメントをしてしまったから」とも言われている。そんな“しくじり”も含め、持ち前の明るいキャラクターと、面倒見のいい性格から、後輩や報道陣にはいじられながらも慕われる存在だった。
そんなマキさんだけど、本当なら地元・愛知の中日でプレーしていたはずだった。93年オフ、FA宣言をしたマキさんは巨人に残留。この時、長嶋監督が17本のバラを持ってマキさんの自宅を訪れて慰留した話が有名だが、その前日、長嶋監督は緊急コーチ会議を招集している。そこでは「最後は地元で野球をやりたいという槙原の気持ちを尊重し、中日に行かせてあげよう」という結論で一致した。それを無視した格好の長嶋監督の行動とあって、慰留翌日の新聞を見たコーチ一同は「あれはいったい何だったんだ…」と、ずっこけたそうだ。
とはいえ、あの時の長嶋監督の独断がなければ、その後の完全試合もなかっただろうし、西武との日本シリーズでの完封劇もなかった。なにより後輩たちにとっても、残留は大きかったはず。そんな意味でも長嶋監督には大いに感謝している。













