【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(31)】新日本プロレスの歯車が狂い続けた中で迎えた1988年4月22日、沖縄・奥武山公園体育館大会で俺のフラストレーションはついに爆発した。
この「スーパーファイトシリーズ」では4月27日大阪府立体育会館と5月8日有明コロシアムでアントニオ猪木さんとビッグバン・ベイダーがシングルマッチ2連戦を行う予定だった。この日の試合では猪木さんと組んでベイダー、マサ斎藤さん組と対戦し反則勝ちを収めた。しかし試合後の控室で、俺は猪木さんにメインの座から降りて、ベイダーとの2連戦を自分にやらせてくれと迫った。会社がうまくいかない責任のすべてが猪木さんにあったとは思わないけど、あの時は他に感情を吐き出す、ぶつけるところがなかった。
「ベイダーとやらせてください」という言葉は取ってつけたものに過ぎない。新日本の中にある序列、いつまでも猪木さんありきの構図への怒り、そんな猪木さん自身もリング内外でいろいろ大変な状況にあるということもあって、決起につながった。当時のやりとりは後年になってバラエティー番組でいろいろネタにもされるけど、自分でも何を言ったのか覚えてないし、感情が高ぶってろれつが回ってなかった。
「やれんのか!」と猪木さんの張り手を浴びた俺は、無意識で張り返していた。自分でも「どうしたんだろう」というくらい間髪を入れずに左の強烈な張り手を入れて、あの猪木さんがよろめいていた。あれがまたいい音がしたんだよ…。猪木さんにとっても予期せぬ反撃だったろうし、周りも凍りついていた。
混乱状態の俺は張り手の後で怒りに任せて救急箱を蹴り飛ばした。いろいろなものがひっくり返って、目の前にハサミが転がってきた。思わず取ったはいいけど、さすがの猪木さんもすごい顔をしていた。
で、ハサミを取ったはいいけど、やることないし自分の髪の毛を切っちゃって…。子供のじだんだじゃないけど、精一杯の意思表示だった。猪木さんは「やめろ、やめろ」って言ったんだけど、俺はバッサバサ切ったもんだから、後日東京に帰った時に妻に「切るならもうちょっとちゃんと切ればいいのに…」と整えてもらった。
この決起によりベイダーとの2連戦を任された。実は猪木さんもベイダーを真正面から受け止める体力・精神は薄れていたんじゃないかな。結果的に初戦はリングアウト、IWGPヘビー級王座決定戦となった2戦目は反則勝ちを収めて、俺はIWGPヘビーのベルトを奪取した。
後に「飛龍革命」と呼ばれるこの出来事は、俺を一回り大きくしてくれた。藤波辰爾というレスラーが一つ上に行くために欠かせない、重要なキッカケになった。













