【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(13)】WWWFジュニアヘビー級王者となり、1978年2月に凱旋帰国を果たした。75年6月に西ドイツ(現ドイツ)へ出発してから2年8か月ぶり。日本に帰ると、羽田空港で大勢のファンたちが出迎えてくれた。

カナディアン相手にドラゴンスープレックスを日本初公開(78年3月)
カナディアン相手にドラゴンスープレックスを日本初公開(78年3月)

 後日聞いた話では、新日本プロレスの営業本部長・新間寿さんがイメージづくりのために呼んでくれたサクラのファンも混ざっていたという。よく考えたら、日本にいなかったのに、のぼりや垂れ幕がたくさんあったのも変な話だしね。新間さんはそういう戦略というか、売り出し方が本当にうまかった。レスラーのことをよく考えてくれていたからありがたいよ。

 とはいっても、米国で王者になって帰ってきたオレへの期待と注目はすごいものがあった。凱旋シリーズと銘打たれて開幕した3月3日の群馬・高崎市体育館大会で行われた試合では、マスクド・カナディアンと対戦し、ドラゴンスープレックスで勝利した。リング上でのインタビューは何も用意していなかったんだけど、たまたま「アイ・ネバー・ギブアップ」という言葉が口から出た。凱旋帰国初戦だし、なんとなく英語で…と思って使った言葉は、その後、自分のキャッチコピーになった。

 このシリーズでは立て続けに新技を出した。新間さんから常に「何かやれよ」「今日また何かないのか」というようなことを言われて、プレッシャーをかけられていたから、カール・ゴッチさんとの練習を思い出しては新しい動きを繰り出していた。さらにメキシコ時代に他の選手が使っていたトぺ・スイシーダも思い出して、やったこともないのに本能のままに披露した。「何か新しいことをしないと」と思い続けてイチかバチかで出した技は「ドラゴンロケット」と命名された。

 当時は日本で、この技を使っている選手はいなかったし、メキシコでも数人だけ。何にもない場外に飛んでいくわけだから、勇気がいるんだよね。メキシコでは命知らずな技を繰り出す選手たちを「すげえな、アイツら」「何かあったらどうするんだ」なんて思いながら見ていたんだけど、まさか自分がやることになるとはね…。

 ドラゴンスープレックスとドラゴンロケットが代名詞となってから、連日各会場でファンたちの期待に応え続けた。世間では「ドラゴンブーム」と言われ、プロレスに関心のなかった人たちも見るようになってくれた。アントニオ猪木さん、坂口征二さん、ストロング小林さんといったヘビー級の試合を見慣れていたファンにも、ジュニアヘビー級の試合は新しい刺激にもなったと思う。

 そんな凱旋シリーズの最終戦となった3月30日の蔵前国技館大会で、前代未聞の“事件”が起きた――。