【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(14)】凱旋シリーズの最終戦、1978年3月30日の蔵前国技館大会は、WWWFジュニアヘビー級王座のタイトルマッチで覆面レスラーのエル・カネックと対戦する予定だった。メキシコで何度も対戦した経験があったし、いい試合になる自信を持っていた。

サインを求めてファンが殺到するなど人気急上昇(78年3月)
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 しかし、大会当日になって、カネックは選手バスから降りてくることなく、そのままホテルに戻って、試合をボイコットしてしまった。これが前代未聞の「敵前逃亡事件」だ。代わりに「ロシアの怪豪」と呼ばれたイワン・コロフとノンタイトル戦で対戦。ドラゴンスープレックスで勝利を収めた。でも勝利の喜びはまったくなくて、ファンが期待してくれていた目玉カードがなくなったことへのやるせなさしか感じなかった。

 いったいなぜカネックが逃亡したのか。その詳しい理由は今も分からない。2018年に来日した際にも記者会見で同じことを聞かれて「昨日のことも覚えていないのに、40年前のことなんて覚えてない」なんて笑ってたけどね。オレもあえて聞きもしないし、話す必要もないと思ってる。結果的にカネックは重大な契約違反をしたにもかかわらず、新日本プロレスは、その後も呼び続けた。会社の寛大な対応を見れば、何か事情があったんだろうね。

 ここからは想像になるけど、あの事件の裏でいろいろな“横やり”があったんじゃないかと思う。メキシコでは看板選手だし、タイトルマッチのニュースはすぐに向こうにも伝わるだろう。試合でケガをしたらどうこう言ってくる人間もいたと思う。それに当時はクセのある外国人選手ばっかり。みんなが足の引っ張り合いみたいな部分もあった。カネックの足を引っ張ろうと、何かよくないことを吹き込んだ選手がいたとしても、全然おかしくない。

 後味が悪くなってしまった凱旋シリーズだったが、いつまでも引きずってはいられなかった。新日本のシリーズが終わったら、すぐに米国に渡って王座防衛戦。WWWFジュニア王者時代はニューヨーク定期参戦の契約も結んでいたし、そんなふうに日本での試合が終わったらすぐに世界中を飛び回って試合をする日々が続いた。大変なスケジュールもあったけど、それよりも充実感の方がはるかに上回っていた。

 新日本の次シリーズは「第1回MSGシリーズ」で、アンドレ・ザ・ジャイアントらの外国人選手も参加するヘビー級中心の大会に参戦した。そして、シリーズ中の5月20日秋田大会では、アントニオ猪木さんとの初対決が実現した。小学校時代から憧れ続け、付け人も務めてきた猪木さんとついに対戦することになったんだけど、この試合は苦い記憶として残ることとなった。