【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(15)】1978年5月20日、秋田県立体育館大会で実現したアントニオ猪木さんとの初対決は、緊張感がハンパではなかった。
カール・ゴッチさんがよく言われていた「俺と練習しているんだから、相手に臆することなくそれを試合にぶつければいいんだ」という言葉を体現するつもりでリングに上がったんだけど、向き合った時には、その鎧(よろい)みたいなものがバラバラにされる感覚だった。人気が出始めていた俺に対して、猪木さんも一人のレスラーとして「そうはいかん」というものがあったんだろうね。
猪木さんの眼光にのまれてしまって思うような動きができないまま、ジャーマンスープレックスで完敗した。屈辱だった。こんなはずじゃないと思ってね…。技も仕掛けられないし、何を自分はためらっていたんだって、その日は悔しくて眠れなかった。
ジュニアで帰ってきた俺の鼻っ柱をへし折った猪木さんは私生活も含めて厳しかった。ジャイアント馬場さんの全日本プロレスへの対抗心もあっただろうし、新日本の中にカツを入れるかのように、特に自分に対して厳しくしていた。ある地方会場での試合前の合同練習で、誰かが音楽をかけながらやっていたことがあった。俺はその輪には入っていなくて、ちょっと離れたところで縄跳びやプッシュアップをやっていたんだ。
そこに猪木さんが入ってきた。選手たちがダラけていたように見えたのか逆鱗に触れ「テメーら! この野郎!」ってあの甲高い声が会場中に響き渡った。慌てて縄跳びとプッシュアップバーを持ったまま「お疲れさまです!」ってあいさつに行ったんだけど、その途端にプッシュアップバーを取り上げられてパカーン!と頭を殴られて…。こっちは何で殴られたのか分からないから、頭真っ白だよ。
猪木さんからすれば、見せしめじゃないけど、誰を殴れば一番みんなの気が引き締まるのかを計算していたんだと思う。付け人もやっていた、凱旋帰国したばかりの花形選手が殴られてるんだから、みんなシーンとなるし緊張感も生まれるしね。ちなみにこの日はテレビマッチで、試合が始まると、5分もしないうちに頭から血が流れてきてしまった。相手選手もお客さんも、流血しているのを見て変な顔をしていたな…。
猪木さんとは79年6月1日の高松市民文化センター大会で再戦が組まれたが、直前の試合で右足を捻挫してしまったため不戦敗になってしまった。それから1年後の5月30日に同じ会場で再び試合が組まれた。試合に敗れたものの、初めて猪木さんにドラゴンロケットを決めることができた。初対決と比べても成長した部分を見せることができた。













