【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(10)】新日本プロレスで若手レスラー中心の「カール・ゴッチ杯」に優勝した後の1975年6月、西ドイツ(現ドイツ)へ海外修行に行くことになった。プロレスといえば米国のイメージがあったけど、当時の新日本にはまだルートもないし、ゴッチさんもレスリングの基礎がしっかりしたヨーロッパに選手を行かせたいみたいだった。
格闘技の経験がないまま日本プロレスに入った。受け身とかそういう部分はもちろん練習してきたけど、ドイツでレスリングの基礎を学べて本当にいい経験ができたと思っている。ニュルンベルクから始まって各地を転戦し、ミュンヘン、フランクフルトまで。当時はだいたい選手が半年くらいで入れ替わって、それが終わると行くところがなくなる。10月に契約が終了すると、ゴッチさんが住んでいる米国のフロリダ州タンパへ行くことになった。
ドイツからフロリダまで同行していた木戸修さんは当時すでに猪木さんとタッグを組んでいたりした。だから俺よりも先に日本に帰国したんだけど、今考えれば残されたのはラッキーだった。当時は会社から呼び戻されずに「俺は必要ないのか」と寂しくなったりもしたけどね。でも、その分、必死に吸収しようと頑張れた。
木戸さんが帰国して一緒に借りていたアパートを引き払うと、ゴッチさんが「俺の家に来い」と言ってくれて、下宿生活が始まった。ゴッチさんにマンツーマンで教われるなんて、ぜいたくなことだよね。
ゴッチさんの家では朝と夕方の2回練習。早朝から走ったり、縄跳びをやったり、スクワットをやったり、とにかくコンディションづくりをした。71歳になった今になってつくづく思うのが、コンディションの重要性。どんなに力の差があっても、コンディションが整ってないとリングの上で勝つことはできない。この年齢まで現役でいられるのも、ゴッチさんの教えのおかげだと思う。
夕方からはジョー・マレンコや、その弟ディーン・マレンコと一緒にスパーリングをやって腕や足の決め方を手取り足取りで教わった。それまで日本で学んだ初歩的な関節技とは全然違っていて、ゴッチさんからの指導はすべてが新しい発見だった。ゴッチさんから徹底的に基本を教わったことでプロレスラー・藤波辰爾のスタイルが出来上がったと思っている。
今では多くの選手が使用しているドラゴンスクリューも、ゴッチさんが「相手の足を取った時にそのまま巻き投げする技もあるよ」と教えてくれたのがヒントとなったもの。ゴッチさんと出会っていなければ、今の俺は間違いなくいないし、2007年7月に亡くなった後も、感謝の気持ちを忘れたことはない。













