【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(8)】旗揚げした1972年当初の新日本プロレスは苦しい日々が続いていた。徐々に新人も入ってきて選手不足は解消されつつあったけど、観客動員に苦戦。後楽園ホール大会も四苦八苦で、みんなでチケットを手売りしたこともあった。日本プロレスがメジャーで新日本プロレスはインディーみたいなものだったから、プロモーターも興行を買ってくれない。
それでも2年目の73年に転機が訪れる。日プロの試合を中継していたNET(現テレビ朝日)の仲介で、新日本との合併話が持ち上がった。ジャイアント馬場さんの離脱で苦しんでいた日プロも一度は合意したんだけど、大木金太郎さんの反対でご破算となってしまった。それでも日プロのエースだった坂口征二さんを筆頭に選手や社員が新日本に移籍。これは心強かったよね。言ってしまえば素人集団に、経験者たちが来てくれて大所帯になったわけだから。
NETは坂口さん入団後、4月6日の宇都宮大会から毎週金曜日夜8時の中継を日プロから新日本に切り替えた。一気に我々の顔が売れることになり、マンネリ化したプロレスを改革しようと新日本をスタートさせた猪木さんの気迫もハンパじゃなかった。選手のみならず営業マンも「いいか、選手が一生懸命試合をやるんだから恥ずかしいような客入りにするなよ」とゲキを飛ばすなどピリピリした空気が漂っていた。結果的に古巣の日プロは崩壊するんだけど、寂しがる余裕もないくらい、目の前のことに必死だった。
新日本の活動が軌道に乗り始めた74年には若手中心のリーグ戦「カール・ゴッチ杯」が開催されて、俺を含む9人が出場した。俺は猪木さんの付け人で新日本の生え抜き、そして他の8人よりも先輩という意地があった。当時は新日本デビュー組と日プロからの合流組の対抗意識もすごかったしね。
リーグ戦を勝ち進み、12月8日の愛知県刈谷市体育館で小沢正志(後のキラー・カーン)との決勝戦に臨んだ。忘れもしない試合だね。この試合は対戦相手の小沢よりも、猪木さんが特別レフェリーを務めていたことが印象に残ってる。優勝した選手は海外遠征に行けることになっていたし、新日本は次のメインイベンター候補を育ててハクをつけたかったんだろう。そんな大事な試合な上に猪木さんの前でヘタな試合はできないから緊張したよ。
試合は逆さ押さえ込みで小沢をフォールして優勝することができた。この日、俺の試合が初めてテレビ中継されたんだけど、そこを考える余裕はどこにもなかった。翌日になったら、いの一番に東スポを買って実家に送ったけどね。とにかく念願の海外遠征の権利を得ることができたんだ。













