【プロレス蔵出し写真館】今から44年前の1982年(昭和57年)1月20日、熊本大会の試合前のリング上で長州力にキーロックを決めて谷津嘉章にアドバイスを送るアントニオ猪木の姿があった。
長州はメキシコ遠征前で、あの〝かませ犬〟発言でブレークする前。猪木が谷津にアドバイスするためとはいえ、長州と絡むのは珍しい光景だった。そして、時には激しいスパーリングをすることもあったのだ。
当時を知る関係者は「リングで合同練習をやっていた時、猪木さんが長州さんに『お前、残れ』って言ってスパーリングが始まった。他の選手はリングから下りた。スパーはかなり激しいもので、猪木さんはアキレス腱を決めたり腕を決めたりして、長州さんは『ギャーギャー』言ってた。真剣なスパーだった。長州さんは足首とかあまり強くなかった。弱点だった。でもオリンピック出てて立ち技がメチャクチャ強かった。だからスパーは寝技から始まってた(笑い)」。
さらに声を潜めて、こう明かす。
「猪木さんが長州さんを指名したのは、愛知県で興行があった時。なぜかって? あの空手の流派が3、40人ぐらい黒いジャンパーを着てズラッと開場前に整列してたから。イスの後ろでトレーニング風景を見てた。猪木さんは『あいつら見てるから』って気合が入っていた。若手とスパーリングしても響かないでしょ。だから長州さんを指名した」
このとき、弟子を何人か連れて「オレが一番強い」と豪語し、会場を訪れていたのは松林空手の東海支部長で〝東海の殺人拳〟の異名を取った水谷征夫氏だ。
水谷氏は「何がアントニオ猪木だ。オレと戦え! この野郎、ただじゃおかねえぞ。これはケンカだ。オレは鎖鎌を使う」。そう猪木に対決を迫った。
山本小鉄と新間寿営業本部長は自伝で、この挑戦話を明かしている。
小鉄は「坊やたち、何しに来たんだい」。それに腹を立てた水谷氏の門下生は「何を言うか。ウチの先生が猪木と戦うと言っている。猪木を出せ」と騒ぎ立てた。
新間氏は「ウチはプロだ。興行として成り立たないものを猪木にやらせるわけにはいかない」。そう断ったが、水谷氏はあきらめる様子はなかったという。
対決することを覚悟した猪木だったが、仲裁を頼まれたのが安藤昇氏だった。
安藤氏は俳優、作家、歌手…とさまざまな肩書を持つ人物だが、かつて安藤組(株式会社東興業)を率いていた組長だ。
安藤氏の仲介で和解を果たした猪木と水谷氏は、互いの友情と尊敬の証しとして名前の一文字ずつを取って、猪木寛至の寛と水谷氏の水を名付けて新たな空手流派「寛水流空手」を79年(昭和54年)12月に設立した。
翌80年2月27日、蔵前国技館で行われた猪木vsウィリー・ウィリアムスの異種格闘技戦には、猪木の護衛に寛水流の門下生が大挙来場したと、寛水流の門下生だった松永光弘(W★ING、FMWで活躍)が明かしていた。
ところで、松永とともに寛水流空手から新日プロ入りしたと言われたのは後藤達俊だった。
「後藤は空手をやってたわけじゃなくて、重量挙げの選手。日本で3位とか準優勝してるんです(愛知県の名城大学時代にインターカレッジで3位)。水谷さんの奥さんか誰かの知り合いで、新日プロには紹介で来たんです。本人も『寛水流じゃないよ』って言ってた。後藤は左利きで、腕相撲で左では負けたことがないと言ってた。猪木さんは左利きだったから、やったら猪木さんに勝ってましたよ。坂口(征二)さんにはコテッと負けてたけど」(前出の関係者)
さて、82年2月27日には愛知・西加茂郡三好町に本部道場が完成し、落成式を行い、その後名古屋市内の名鉄ホテルでの祝賀パーティー兼自伝出版記念(「喧嘩空手一代―東海の殺人拳水谷征夫」安藤昇著)には猪木を始め、坂口、藤波辰巳(現・辰爾)、初代タイガーマスク、新間氏が出席した(写真)。
猪木は「水谷氏の青少年育成の姿勢はまったく頼もしいし、今後も共通の目標達成へ私、そして寛水流空手が一致団結して頑張りましょう」とあいさつ、改めて2人の友情団結を確かめ、大盛況だった。
猪木はその後も、寛水流の演武会や「寛水流空手オープン世界大会」に訪れて門下生に〝闘魂ビンタ〟をお見舞いしている。
今の時代、こんな話は〝絵空事〟として信じてはもらえないだろう。〝格闘技世界一〟を標ぼうし「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」という猪木の発言に呼応して大なり小なりさまざまな〝挑戦話〟が噴出していたのだ(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













