【全日本四天王が語る歴史の分岐点 田上明 王道の証明(14)】全日本プロレスを辞めた選手たちが集まってできた新団体「プロレスリング・ノア」は2000年8月に旗揚げとなった。全日本でも社長を務めていた三沢(光晴)が会社トップに就任し、俺も取締役になったよ。全日本でもやってたし、めんどくさいんだけど、誰かがやらなきゃしょうがなかったね。
旗揚げ戦は…。俺たちはリングがあって相手がいたら、そこでプロレスをやるだけだから。演出はスモークを使ったり、コーナーから火柱が出たり、派手だったけど、俺は地味な人だから(笑い)。プロレスのスタイルも以前と変わらなかったよ。でも、この時の年齢は39歳だから、いろいろズルくはなっていたよね。若い時みたいにバリバリできないからさ。
01年5月にはGHCヘビー級の初代王者になった三沢に初めて挑戦した。仕事だからやるしかないでしょ。「俺が」じゃなくて「俺も」だね。三沢も頑張るなら、俺も頑張ろうと。俺にも家族がいるし、頑張らないとしょうがないよね。
この戦いで新技の「俺が田上」をお披露目した。ある程度、派手な決め技が欲しかったのよ。渕(正信)さんのアドバイスでできた技に改良を加えてできたんだ。技名は…、俺が考えたんじゃねえんだ、リング屋が新聞記者と考えたんだよ。俺、技に名前なんかつけたことないよ(笑い)。
こんなふざけた名前つけられて「俺って周りから見ると、そういう人間なのかな…」って思っちゃうよね。Tシャツだってふざけたヤツばっかりだもん。俺が「田植え」してたり、魚釣ってるヤツとか。秩父セメント(※1)の時はミキサー車に〝箱乗り〟してるヤツだったよ。笑っちゃうよ、着るの、恥ずかしいもん。でも怒ってもしょうがないもんな。勝手にやって勝手に売ってくれればいいよ。
試合は…ともかく疲れたよ。三沢にはほとんど勝ったことねえからさ。返し技が得意でやりづらくて…。試合は負けちゃったね。次の年の5月にも小川良成(GHCヘビー級王者)に挑戦して…負けたんじゃねえか? 自分のふがいなさが頭にきたよ。彼は真面目にやってた人だったよ。おとなしい感じはしたけどね。天龍さんの付け人だったかな。
旗揚げしてからの数年を振り返ると、最初は結構波に乗った感じだったよね。新日本が調子が悪くなった時があって、うちから選手を貸したこともあったんじゃないかな。その後、親会社が変わって新日本はガーンと上がったもんね。
それもこれも三沢や小橋の頑張りじゃないの。俺なんかは40過ぎてたころだったから、だんだん疲れが出てきたよね。
※小橋建太の持つGHCヘビー級王座奪取へ向けて開発した技













