【全日本四天王が語る歴史の分岐点 田上明 王道の証明(12)】師匠の(ジャイアント)馬場さんが1999年1月31日に亡くなった。大変だったね…。体調悪くて入院してたのは知っていて、お見舞いにも行ったんだっけかな、その辺が定かじゃない。
たしか会社から「馬場さんが亡くなった」って電話があって、すぐ病院に行ったのは覚えている。葬式のために馬場さんの自宅マンションまで亡きがらを運ぶのが大変だったよ。でっけえからエレベーターに乗らねえんだよ。マンションから下ろす時も横の1人が「ああもうダメだ」って抜けちゃうし…。俺とか他の何人かで下ろしていったんだけど、疲れたね…。1月だったのにぐちゃぐちゃに汗かいて大変だったのは覚えてるよ。
びっくりしかなかったよね、本当に驚いた。亡きがらを見た時には涙が出たよ。最後に交わした言葉か…。覚えてないね。年中怒られてたから、最後も「玉!(田上の愛称)」って怒られてたんじゃないのかな。馬場さんは俺にとってはやっぱり師匠だね。尊敬できる存在だったよ。プロレスに関しても、いろいろなことを教えてもらったし、人生に関してもいろんなことを教えてもらった。いい師匠だったね。ちょっとズルいところはあるけど(笑い)。馬場さんがいる限り他(の団体)へ行くっていうのは考えられなかったね。
馬場さんからは年中ゴルフに連れていかれたよ。馬場さんといい勝負なのよ。息子が3歳か4歳の時に「パパの仕事はゴルフとプロレス」って言うぐらい。ゴルフ中も馬場さんは子供みたいなズルしていた。俺も子供みたいなものだと思われてたのかも。別荘に行った時もお風呂が馬場さんサイズだから俺でも蹲踞(そんきょ)しないと入れなかった。本当に変なことがいっぱいあったよ…。息子(豊さん)の名付け親だし、仲人もしてもらったね。
馬場さんが亡くなって初の日本武道館(99年3月)でビッグバン・ベイダーと3冠王座決定戦で戦った。こいつ人間かよって思ったね。こんなデカいのとは馬場さんぐらいしかやったことなかったから。負けたけど、いい勉強になったよね。鶴さん(ジャンボ鶴田)がここで引退をしたけど(試合を)できる状態じゃなかったからね…。
暮れの最強タッグリーグには(スタン)ハンセンとのタッグで出た。ハンセンはブルロープを回すじゃない。入場してくる時、俺のほっぺに「バチーン」って当たってすごい痛かったんだ。リングで「ほらみろ、お前のロープで赤くなってるだろ!」って言ったら「ソーリー…」って(笑い)。何だいソーリーひと言かよって。
優勝決定戦には(馬場夫人の)元子さんからもらったガウンを着て出場したよ。せっかくだから着なきゃいけんなってね。













