【プロレス蔵出し写真館】6月2日に肺炎で亡くなったプロボクシング元WBC世界ライト級王者でタレントのガッツ石松さん(享年76)のお別れの会が9月2日に後楽園ホールで開かれた。

 スライドで様々な写真が流れたが、プロレスラーのキラー・カーン、新日本プロレスで「平成の仕掛け人」と呼ばれた永島勝司氏の3人で写っている写真は異彩を放っていた。この写真は、2022年に永島氏の著書「永島オヤジの遺言」(フルスイングマガジン12)が出版された際に行われたトークショーで撮られた一枚。著書ではガッツさんとの対談も収録されていて、永島氏が望んだという。

 永島氏は東スポで整理部長から運動部へと異動となり、取材を通じてガッツさんと仲良くなった。

 ところで、永島氏が記者時代からもっとも親しくしていたのはアントニオ猪木だった。1988年に東スポを退社して新日プロに入社し、猪木の右腕として手腕を発揮する。翌89年4月の東京ドーム初進出、95年4月の北朝鮮・平壌大会、同年10月の「新日本対UWFインナーナショナル全面戦争」の実現に尽力した。

「レスラーが嫌がるカードがファンの見たいカード」が持論だった。

 永島氏のユーチューブで蝶野正洋をゲストに迎えた回では、戦わせたいレスラー同士に互いの悪口を吹き込み、疑心暗鬼にさせて対決に向かうよう仕向けると明かしていた。蝶野はそのやり方に腹が立ったと証言していた。

 さて、今から40年前の85年(昭和60年)12月6日、新日の両国国技館のリングにUWFの前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(後の延彦)、山崎一夫の5人が上がり、業務提携が発表された。

 翌86年から新日本対UWFの抗争が激化し、5対5イリミネーションマッチや勝ち抜き戦にファンは熱狂した。「イデオロギー闘争」と呼ばれ、猪木と前田の一騎打ちが期待された。機運は高まったが、猪木は前田の対戦要求を避け続けていた。

 その年の9月7日、筆者とY記者は翌日の新日、福島・棚倉町への出張を前に永島氏と会社近くの居酒屋にいた。永島氏は我々に声をひそめてこう言った。

「明日の試合前、猪木が前田を呼んでスパーリングする。不測の事態に備え(ドン)荒川が待機している。それが原稿だから」。我々は〝激しいスパー〟が頭に浮かび、思わず唾をのみ込んだ。

 翌日、会場では猪木はリング上、前田は会場の隅でウエートトレを行っていた。一向にスパーをする雰囲気はなかった。客入れの時間が迫っていた。永島氏にハメられたと察知したが、話は通っているはず。そういう写真を望まれてる以上、撮らなければならない。

 猪木に「前田とは練習しないんですか?」とさりげなく尋ねた。

「アキラ!」。 猪木は〝仕方ねぇな〟というような顔で前田を呼んだ。前田は走って来ると、筆者に笑顔で「ポスター撮り?」と聞いてきた。

 2人にロックアップしてもらい、動きを出すため前田に蹴りのポーズを要求。そうこうしていると猪木が仕掛け、前田が猪木の足を取り、テークダウンさせた(写真)。数分で2人の絡みは終わった。前田は、来たときとは違いムッとしてリングを下りて行った。

前田(右)の蹴りをガードする猪木(1986年9月、福島・棚倉町)
前田(右)の蹴りをガードする猪木(1986年9月、福島・棚倉町)

 翌日の東スポ紙面の〝前田キック猪木えぐった 7分間の実戦スパー〟の見出しを見て専門誌が慌てて巡業に来て前田を直撃した。

「スパーリングなんてするわけないやろ!」。前田は激怒したという。

 その年の10月9日、両国国技館で開催された「INOKI闘魂LIVEパート1」で2大異種格闘技戦が行われ、前田はマーシャルアーツのドン・ナカヤ・ニールセンと対決し、名勝負となり「新格闘王」の称号を手に入れた。片や猪木は、モハメド・アリとも戦ったプロボクサーのレオン・スピンクスを相手に大凡戦を演じてしまう。

 猪木は延髄斬りを食っても倒れないスピンクスに手を焼き、最後は強引に押さえ込んでフォールして勝利した。

 まさに〝前田時代の到来〟を予感させる2大決戦となったのだった。

 猪木VSスピンクス戦でレフェリーを務めたのはガッツさん。永島氏のオファーで実現した。

 ちなみに、前田に改めて猪木とのスパーの件を聞いてみると「覚えてないですね」とひと言(※Y記者も同様だった)。

 晩年の永島氏は猪木とは疎遠となっていた。ガッツさんとの関係だけは変わらなかったようだ(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る