【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(9)】1974年に若手レスラーによる「カール・ゴッチ杯」に優勝し、海外遠征の権利を手にしたけど、その話をする前にちょっと寄り道。旗揚げ1年目の72年に起きた海外での“事件”について話そうと思う。
新日本プロレスの1年目はまだ試合数が多くなかったため、猪木さんはPRもよくテレビ番組に出演していた。その中に東京12チャンネル(現テレビ東京)の企画で2~3週間くらいアフリカの地元民と生活するドキュメント企画があったんだ。オレも猪木さんの付け人として同行することになった。もちろん、海外だからってウキウキ気分はまったくないよ。
日本で猪木さんの身の回りをお世話するのとまったく同じつもりでアフリカに向かったんだ。ケニアのナイロビから車でタンザニアに入り、マサイ族が住むジャングルに入った。現地コーディネーターもいて我々はテントを張って生活した。
ロケは順調に進んでいたんだけど、1週間ほどたったところで猪木さんが「日本で急用ができたから先に帰るけど、お前はここに残れ」と言い残して先に帰国してしまう。ロケに同行していたテレビクルーもいなくなり、もう焦るだけよ。これが有名な「アフリカ置き去り事件」で、オレはジャングルに取り残されてしまったんだ。
当時18歳。心細いどころじゃないよ。2日間ぐらいはテントにいたんだけど、寝るにもなかなか寝付けないし、朝起きても枕元にはマサイ族しか立ってないし…。
それにしても今思うと、携帯電話もないのにどうやって猪木さんに日本からの急用が入るんだって話だよ。一種のドッキリみたいなものだったのかもしれないけど、こっちは気が気じゃないから。結局ジャングルに残っていたポーターが帰りのチケットを手配してくれて、空港まで送ってもらったんだけど、日本に帰るまでメシも喉を通らなかった。
後で話を聞いたら、ポーターはちゃんと猪木さんからお金を渡されていて、ちゃんと空港のゲートに入るまで見届けてくれるとか、ケアはしてくれていたらしい。でも、そんなところまでオレは分かるわけないよね。当時は自力ですべての手続きしたような記憶しか残ってない。自分でもどうやって帰ってきたんだろうって。
命からがらで日本に帰ってきたと思ったら猪木さんは「オウ、帰ってきたか」って(笑い)。でもあの事件があったからハプニングにも動じないようになったし、置き去りにされた経験をすれば海外どこでも一人で行けるようになるよ。猪木さんは普通ではできないことをさせ、レスラーとして成長させようとしてくれたのかな。「かわいい子には旅をさせろ」とはよく言ったものだよ。












