【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(1)】プロレス界のレジェンド・藤波辰爾(71)が激動の半生を振り返る新連載「炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道」がスタート。弱冠17歳でデビューし、今年でキャリア54年目を迎えた。日本プロレスに入門後、新日本プロレスの旗揚げに参加し「ドラゴン殺法」で一世を風靡。日本人2人目のWWE殿堂入りを果たした偉人が歩んできた足跡を告白した。

幼少時代は大自然に恵まれた環境で育った(本人提供)
幼少時代は大自然に恵まれた環境で育った(本人提供)

 1953年12月28日に大分県の東国東郡武蔵町志和利(現・国東市)で6人きょうだいの末っ子、四男に生まれた。生まれた年の干支は「巳」なんだけど、その前の年は「辰」。兄貴なんかから聞いた話だけど、親父(晋さん)が役場に出生届を出す時に干支を並べることを思いついてつけたんじゃないかって。安易だなって思ったんだけど、今思えば、いい名前をつけてもらったよね。結果的に「ドラゴン」がこれだけクローズアップされたわけだし、感謝してるんだよ。

 親父は炭焼き職人で農作業以外はほとんど山に登って炭を焼いてた。だから家のことはほとんどおふくろ(トヨ子さん)がやっていて、小学校の時にはよく弁当を届けに山を登った。当時は懐中電灯じゃなくちょうちんで子供の足で1時間以上かかる山道。今だったら怖くてできないよ。

 そんな大自然の野山を駆けずり回るのが俺にとっての遊びだった。でも小学校に上がるか上がらないかの時だったかな、水を抜いた池の中で魚捕りをやっていたらジフテリアにかかってしまった。今は医学が発達したけど、当時は死亡する人もいるくらいで、一時は死の淵をさまよった。おふくろなんかは半分くらい覚悟してたって。俺の執念というか生命力は、そういう経験から来てるのかもしれない。格闘技経験もなくプロレスの世界に飛び込めたのも、丈夫な体に産んでくれた両親と、まるで野生児のように育った幼少期の生活環境のおかげだろうね。

 プロレスを初めて見たのは小学校3年生の時だった。近所に住む父方の叔父が初めてテレビを買って、大人はみんな力道山が外国人レスラーを倒す姿に大騒ぎ。でも俺は子供だったから恐る恐る見ていたって感じだった。

 プロレスに熱中して見るようになったのは中学校に入ってからだったと思う。テレビの中のジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんに憧れてね。当時は馬場さんがエースで活躍されていたんだけど、猪木さんは動きが機敏だし、あの気性だから、俺は子供心に一番引きつけられた。

 地元でプロレスを見る機会なんてなかったんだけど、日本プロレスは時折、地方巡業で大分市に来ていた。中学校2年の時、6歳上の兄貴(次男の栄二さん)が大分市内に就職していて「今度来るから一緒に行こう」とチケットを買ってくれたんだ。テレビの中にいたレスラーたちを生で見られるなんて夢のような出来事だったから、俺は迷わずに行くことにした。そして、その経験が人生を大きく左右することになったんだ。