【プロレス蔵出し写真館】2月28日に亡くなった〝戦う区議〟西村修さん(享年53)の告別式が8日午後1時から文京区の大本山護国寺桂昌殿で営まれ、喪主は妻の恵さん(37)が務めた。弔辞を読んだのは武藤敬司と師匠の藤波辰爾だった。
さて、今から18年前の2006年(平成18年)9月25日、後楽園ホールで行われた「無我2006プレミアム始動」(無我ワールド旗揚げシリーズ最終戦)で、西村さんは藤波とシングルマッチで対戦し、悲願の〝師匠超え〟を果たした。
試合は60分3本勝負で行われ、1本目を西村さんが一瞬のスキを突き首固めを決めてわずか50秒で先制。2本目はじっくりと藤波を攻め立てキーロックの猛攻(写真)。しかし、ドラゴンスクリューから足4の字固めを決められ1―1のタイ。決勝の3本目は再び足4の字にきた藤波を切り返して、裏足4の字固めでギブアップを奪い、2―1で勝利した。西村さんは「手応えを感じた」と言葉少なに喜びをあらわした。
翌年、藤波とはボタンのかけ違いからあつれきが生まれ、西村さんは征矢学とともに全日本プロレスに電撃移籍した。藤波からは「人間として残念」とまで言われ、ケンカ別れになってしまった。疎遠になっていた関係が進展したのは、今年1月31日に後楽園ホールで行われた「ジャイアント馬場没25年追善興行」だった。
出場が予定されていた西村さんは体調が悪化したため欠場を余儀なくされたが、代役で出場したのが藤波だった。大会の実行委員・木原文人リングアナの〝サプライズ〟なオファーにファンは称賛を送った。闘病中の西村さんに代わって、会場を訪れたのは恵さんと6歳の愛息だった。
恵さんにそのときの思いを聞いた。以下一問一答。
――藤波には会えたようだ
恵さん 藤波さんが出てくださることが決まって、夫が「必ず行って試合を見てくれ」って。藤波さんにお会いできる確証はなかったが、その場の空気感だったり熱量、感動だったりを夫に伝えてあげたいなっていう思いが強かった。会場に行かせていただいたら、藤波さんは温かい方でお会いできることになりました。
――西村さんからなにか伝言は託されたのか
恵さん このたび出てもらったことだったり、夫は今までのことを本当に感謝をしている旨、直接、謝罪をしたがっている旨をお伝えさせていただきました。
――藤波の返答は
恵さん 藤波さんは本当にやさしくて「病院でもいいし、退院してからでも。とにかくいつでも会うし、もうなにも思ってないから。怒ったりもしてないから」って(そう言うと恵さんは涙ぐんだ)。
「体調もあるので、とにかく会えるタイミングが合えば、いつでも会います。駆け付けますよ。とにかくリングに戻ってくるよう励ましてくださいね」っていうやさしいお言葉をいただいた。返答が温かくて涙が止まらなかったですね。病室で夫に伝えたら、夫も泣いて感謝してました。
――恵さんは藤波との確執は聞かされていた
恵さん ウチの夫はそういう話を私に話してくれたこともないですし、元々こういうことがあったとか話すタイプでもなかったので、藤波さんとの間にどういうことがあったのかは、わからなかったんです。生活の苦しさがあったのは言ってました。征矢さんなどを育ててたのでお金がなかったと。それでも自分が悪いので謝りたいと言ってました。
――西村さんは瞑想、長い説法が売りで“無我の説法師”の異名を取った。家でもあのキャラだった
恵さん 私、本当におしゃべりなんですよ。家では私がずっとしゃべってて、夫にしゃべる隙を与えなくて「まだしゃべってる」とか「ホントにずっとしゃべってるね」って。夫が「ハ~」ってあきれるぐらいでした。
――西村さんの忘れられない思い出は
恵さん 夫はスノーボードがすごい好きだった。プロレスに入る前にスノーボードのプロも目指したいって思った時期もあるぐらい。私、すっごく運動嫌いなんですけど、夫と一緒にいたいがために頑張って覚えて、今では私もスノーボードに行くのが大好きで。去年の1月とか2月も子供と夫と雪山に滑りに行ってました。夫が好きだったのは山形の蔵王だったんです。
――スノーボードの話は初耳だ
恵さん(は涙声で)夫が病室に写真を飾っていたのは、夫がまだ元気だった夏、3人で蔵王に行ったときの写真。家族で遠くまで行ったのは蔵王が最後でした。「冬もまた来たい。息子に見せたい。ここは大好きな場所だから」って言ってました。本当に好きでしたね、雪山とかが。冬ではなかったですけど蔵王に息子と行けたから、うれしかったと思います。
恵さんはそう亡き夫・西村さんを偲んだ。藤波と直接会っての対話がかなわなかったのは心残りだろうが、最愛の恵さんを通して藤波の思いを聞けたのは救いだったろう。
西村さんの〝長い〟説法が懐かしい。謹んでご冥福をお祈り申し上げます(敬称略)。













