ステージ4の食道がん(扁平上皮がん)で闘病していたプロレスラーで東京・文京区議会議員の西村修さんが2月28日に都内の病院で死去した。53歳だった。クラシカルなスタイルで観衆を魅了した名レスラーは、大病を患いながらもリングに立ち続けたが、最期までかなわなかったのが〝確執〟のあった師匠・藤波辰爾との再会。すれ違い続けた師弟の物語の舞台裏とは――。
西村さんは1990年4月に新日本プロレスに入門し、翌91年4月にデビュー。退団後は無我ワールドプロレスリング、全日本プロレスで活躍する一方で、2010年から政治活動を開始すると、11年に東京都文京区議会議員選挙で初当選。以後はフリーランスとして議員活動とレスラー活動を両立させていた。
昨年3月に食道がんが発覚し、4月から闘病生活に突入。不屈の闘志でリングに上がり続けたが、出場予定だった1月31日の『ジャイアント馬場没25年追善大会』(後楽園)を欠場した。
同大会で西村さんの代わりに出場したのが、かつての師匠・藤波だった。西村さんは07年10月に「亡命」という過激な表現を使って、無断で無我を退団。師弟に確執が生まれ絶縁状態が続いていたが、藤波は試合後に「頑張ってリングに上がって来い」とエールを送っていた。
西村さんの訃報を受けて取材に応じた藤波は「本当に無我の最初からいたわけだから、思い出は尽きないですよ。性格的には本当に穏やかだったよね」と振り返りつつ、2人の確執にも言及。「(退団から)今日までとうとう会わずじまいで終わってしまったんだけど、俺が彼を憎んだとかではなくてね。馬場さんの大会で代わりに出たのが、俺の気持ちのすべてですよ。彼のしたことに対して、俺は何も思っていないよということ」と説明した。
藤波は「人づてに『いつかは俺に対しておわびしたい』というのがあったというのは、聞いたけどね」と明かしたが、実際に周囲は師弟の和解に向け、動いていた。
新日本プロレス学校の先輩で、西村さんが高校2年生の時から付き合いがある新日本の三澤威トレーナーは「藤波さんが代わりに出た時に『涙が止まりません』とメッセージでやり取りしてたので、これは会わせた方がいいなと思って」と、関係者の間で連絡を取り合っていた。
西村さんが昨年9月に死去した小林邦昭さんを見舞っていた際、小林さんが望んでいた坂口征二さんとの対面をかなえてあげられなかった心残りがあり、そのことも知っていたからこその行動だった。
西村さんは近く退院する予定だったが、2月28日の朝に体調が急変し、帰らぬ人となってしまった。三澤トレーナーは「とりあえずは退院しないと面会も禁止だったので。そこから藤波さんに連絡すればと思っていたんですけど、こんなに早いとは…」と突然の別れにショックを隠し切れなかった。
それでも西村さんの思いは藤波に届いている。「悔いは残りますよ。申し訳ないという気持ちを持ったまま、旅立たれたことを思うとね…。(思いが天国に)通じるものなら『俺はもういいよ』と。恨んでもないし、旅立ってくれと。長い時間、闘病生活ご苦労さまという気持ちと、冥福を祈ってます」(藤波)。
無我の理念に共鳴した師弟の絆は、永遠に不滅だ。














