【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(2)】 1968年1月30日、大分市内に勤める6歳上の兄貴(次男の栄二さん)とともに日本プロレスを初めて生で観戦するために大分県営荷揚町体育館へ向かった。住んでいた国東から大分市までは約50キロ。当時は汽車もなく、バスに乗るお金もないから自転車で3~4時間かけて向かったんだ。距離とか時間は関係ない。とにかくプロレスを見たい一心だった。
初めて見た印象は、怖かった。デカいプロレスラー同士がバチバチと戦っていて、会場には殺伐とした空気が漂ってるし、とてもじゃないけど、今の子供たちみたいにサインをもらいに行こうとか、そういうどころじゃなかった。今でこそプロレス女子とかいるけど、当時の試合会場は子供や女性のファンはほとんどいなかった。
でもジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さん、吉村道明さんの迫力には心を奪われた。それ以来ますますプロレスにのめり込んで、中学校を卒業したら「プロレスラーになるんだ」という気持ちが芽生えたんだ。この時、一緒にプロレスを見に行った兄貴が一番の理解者で、オレが兄弟の中で一番体がデカかったこともあってか「プロレスラーになれ」と言ってくれてね。
ただ中学卒業後の進路に「プロレスラー」と書いたら心配した先生に怒られた…。先生だって家庭訪問でうちが裕福じゃない環境だってのは知ってるし「バカなこと言ってないで就職するか高校に行くかなんとかしろ」って、四六時中うちに来て説得してくれてた。
ただ兄貴はオレ以上にプロレスラーになる夢を応援してくれて、会場で買ったパンフレットに書いてあった日本プロレス事務所の住所に手紙を書いてくれたりした。もちろん、何の音沙汰もあるわけがない。そのうちオレの上半身裸の写真とかも送ったりしてたんだけど、返事なんか来るわけないよ。当時は入門テストなんかないけど、力士だったり、柔道家だったり即戦力みたいな人しか入れないわけだから。
そうこうしている間に卒業の時期が来て、オレは就職をすることになった。職業訓練校で勉強をして、別府にある自動車修理工場でお世話になることになったんだけど、プロレスラーになる夢は諦めてなかった。国東にいても可能性はないけど、別府にいれば、いつかまたプロレスの巡業が来るという思惑もあったんだ。
別府の寮に住んでいる時は、仕事後に大分に行ってボディービルをやって、兄貴にメシを食わせてもらう日々が続いていた。そんなある日、兄貴がウワサをキャッチした。「足をケガした日本プロレスの北沢幹之さんが別府温泉に療養に来ているらしい――」。兄貴の運転で、すぐに別府温泉へ向かったんだ。













