【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(3)】日本プロレスの北沢幹之さんが療養していると聞いたオレと兄貴(次男の栄二さん)は別府温泉の旅館を片っ端から探した。「プロレスラーは泊まってませんか」。今なら個人情報保護で絶対教えてくれないけど、当時は素直に教えてくれる時代だった。よく考えたらとんでもない話だよね。何軒目だったかな…今でも忘れない「湯狩荘」という旅館に北沢さんが泊まっていることを突き止めたんだ。
北沢さんは見ず知らずの兄弟のために時間をつくって話を聞いてくれた。俺は肩を丸めて見ているだけだったけど、北沢さんも兄貴の押しに「ダメだ」とは言い切れなかったんじゃないかな。「今度日本プロレスの巡業が九州に入ってきて、まずは下関に来るから一緒に行こうか」と言ってくれたんだ。
もちろん、北沢さんに新人の入門を許す権限なんてないんだけど、その言葉をもらっただけでうれしくて、勤めていた自動車整備工場に「プロレスラーになるので辞めます」と伝えた。社長もあぜんとしてたけど、オレと兄貴の姿も見てたからこれは真剣だと思ったのか餞別までくれた。
1970年6月16日、当時16歳のオレはおやじ、兄貴、北沢さんと4人で日本プロレスの下関大会に向かった。試合が終わると下関の旅館で北沢さんがアントニオ猪木さんやジャイアント馬場さんに会わせてくれた。その時は北沢さんもこれで満足して帰ってくれたらいいなと思ったんじゃないかな? でも最後までオレと兄貴が頼み込むものだから、当時の現場監督だった吉村道明さんに北沢さんが「僕が預かりますから、この子を預けてくれませんか」と言ってくれたんだ。
許可が出ると、猪木さんの付け人だった北沢さんは猪木さんのカバンをオレに持たせてくれた。そんな既成事実ができてしまったものだから、他の周りの選手ももう何も言えない。いきなり小さいのが猪木さんのカバン持って後ろをついて回ってるんだから、みんな変に思ってただろうね。
その日からおやじと兄貴と別れて日本プロレスの巡業につくことになったんだけど、正式に入門したのは6月19日の鳥取大会後、北沢さんについて初めて上京した時だった。秩父宮ラグビー場の近くにあった日本プロレスの事務所に連れていかれて、芳の里淳三社長、遠藤幸吉さんら首脳陣にあいさつをした。「北沢に預けるから」ということで認められて、晴れて練習生になった。
それにしても、同郷というだけでここまで北沢さんが導いてくれたことには感謝しかない。右も左も分からない16歳がプロレスラーになれたのは、背中を押してくれた兄貴、そして北沢さん2人のおかげだということは間違いない。













