【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(4)】1970年6月、日本プロレスの練習生となり、北沢幹之さんに代わってアントニオ猪木さんの付け人になった。試合が終わったら旅館に戻って靴ひもをほどき、お風呂場に行って背中を流して、洗濯をする。食事の時も給仕して「もういいよ」と言われたら荷物を持って自分の大広間に戻る。それからが自分の食事の時間だった。
猪木さんは細かくああしろ、こうしろとは言わない。オレは前の付け人だった北沢さんからタオルの絞り方から背中の流し方まで全部教わっていたんだけど、憧れの猪木さんの前だからいつもガチガチ。後になって昔話で「付け人の時に猪木さんの頭を流していたんで、目をつぶっていても猪木さんの頭の形は分かります」と言っていたけどね。だから2022年に猪木さんが亡くなった時、線香をあげた後で頭を触らせてもらったら一気に昔の思い出がよみがえってきた。
巡業を続けているうちにリング上とか、他の選手と同じように練習に交えてもらえるようになった。レスリングの経験もないし、陸上しかやったことないから、寝技や受け身は完全に素人。ヒジを擦りむいたり、あのころは本当に全身擦り傷が絶えなかった。
でも帰るわけにはいかないし、もう死に物狂いでついていった。当時の恐怖は今も忘れられないよね。スパーリングだって、どう動いていいか分からない。先輩たちはデカいし、オレは小さいから、上に乗られたらもう逃げられないんだ。逃げ方も分からないしね。顔の上に腹を持ってこられるものだから息ができない。口をふさがれて、やっと腹を外されて呼吸ができるようになると「プーッ」という音が鳴る。ラッパの音に似ているので「ラッパかませ」というのが先輩たちの口癖。今で言うと「しごき」なんだろうけど、精神的なものも含め厳しく鍛えられたとは思うよね。
今でこそ「コンプライアンス」なんて言葉があるけど、当時は一切なし。16歳のオレも容赦なく酒を飲まされたしね。猪木さんの付け人の仕事が終わって大広間に行ったら、先輩たちが「ご苦労さん、こっち来い」と言って、どんぶりを持たされて日本酒をドカドカドカッと注がれて。いやあ、キツかった…。こっちは酒の味も分からないのにね。
体が小さかったからなかなかデビューはさせてもらえなかった。当時の日本プロレスはミツ・ヒライさんが“若頭”みたいなポジションで若手のマッチメークをしていたけど、1971年の春になって、ついに「リングシューズを作っておけ」と言われた。この言葉はデビュー戦が近いということを意味している。入門から約10か月。プロレスラーになる夢がかなおうとしていた。













