【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(6)】日本プロレス改革を巡ってすれ違ったアントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんは1971年12月7日の北海道・札幌中島スポーツセンター大会を最悪の雰囲気で迎えた。

猪木さん(右)と馬場さん(70年8月)
猪木さん(右)と馬場さん(70年8月)

 そのころにはタッグマッチで馬場さんと同じコーナーに立つと、猪木さんが襲うんじゃないかという空気になって、馬場派の人間が全員セコンドに就いて、猪木さんの周りはオレと山本小鉄さんと木戸修さんだけ。猪木さんもお客さんの前でそんなことしないに決まってるんだけどね。

 この日は2人が保持するインターナショナル王座の防衛戦でドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクとの対戦だった。猪木さんは他の選手と別のホテルを取って試合が始まるギリギリまで部屋にこもった。2人が「ザ・ファンクス」に負けてベルトを失うと猪木さんは翌日から欠場。これが日本プロレスでの最後の試合になった。

 オレは、その後も12月12日の東京体育館大会まで出場した。そして翌日、猪木さんの日本プロレス追放が発表された。吉村道明さんに呼ばれて「お前は猪木のことは気にせず、ここにいればいいんだからな」と言ってもらったけど、気持ちの面では、そういうわけにはいかなかった。

 その思いが通じ合っていたのか、猪木さんが日本プロレスを追放されてから数日後の夜、猪木さんの弟・啓介さんが代官山の合宿所を訪ねてきた。「兄貴が“来い”と言っているからすぐに荷物をまとめて行こう」。そう誘われたら何も迷うことはなかった。すぐに決断して、猪木さんのガウンや試合道具、自分の試合道具、私物をまとめると、4つのスーツケースを持って合宿所から夜逃げした。誰かに捕まったら袋叩きにされるだろうから、さすがにあの時は足が震えたね。

 猪木さんは猪木さんでよりによって、日本プロレスの合宿所から目と鼻の先、猿楽町のマンションを借りて事務所にしていた。事務所に着くと猪木さんは「元気か」みたいな普段のテンションで声をかけてくれたけど、あの目を見ればやる気だということはすぐに分かった。天下の日本プロレスを相手にして、新しい団体を立ち上げて勝負に出たんだ。

 猪木さんは新団体の資金繰りをする一方、世田谷区野毛の自宅の庭を更地にして道場を建設していた。山本さんと木戸さんも日本プロレスを離脱後に合流し、3人で石拾いをやったり基礎工事を手伝って練習代わりにしていた。

 そして年が明けた72年1月、新団体「新日本プロレス」の設立が発表された。同じ時期に道場も完成し、旗揚げ戦は3月6日大田区体育館に決定した。猪木さんと新しい団体を設立することに、うれしい気持ちでいっぱいだった。