【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(11)】カール・ゴッチさんの指導は、練習以外もストイックだった。テレビは見せてくれないし、会社が日本から送ってくるプロレス雑誌も見る前に没収。悪い言い方をすると刑務所みたいだったけど、里心をつけさせたくなかったんだろうね。

タンパにあるゴッチ宅での修行は厳しかった(75年11月)
タンパにあるゴッチ宅での修行は厳しかった(75年11月)

 練習漬けの日々が約5か月続いた1976年3月、ゴッチさんの仲介でノースカロライナ州が拠点でNWAに加盟しているジム・クロケット・プロモーションズへの参戦が決まった。米国で日本人レスラーははだしの「田吾作スタイル」とキャラクターが決まっていた。俺も「ドクター・フジナミ」というリングネームになったんだけど、ゴッチさんは「俺のボーイはそういうキャラクターはいらないんだ」と怒ってね。リングネームこそ、そのままだったけど、黒いショートタイツとリングシューズで試合ができることになった。

 ノースカロライナから各地を転戦する間、ちょうどメインイベンターに上がったリック・フレアーとも出会った。控室で話しかけてくれて、食事にも誘ってもらったんだけど、しばらく後に東京ドームで戦うことになるんだから人生は不思議なものだよね。

 米国での修行は77年3月、ちょうど1年で終わりを告げた。契約期間は終了したものの、まだ日本から「帰ってこい」との声はかからない。ゴッチさんに相談したところ、メキシコのUWA参戦を手配してくれた。ゴッチさんは欧州、米国ともスタイルが違うメキシコのルチャ・リブレを経験させたかったみたい。結果的にこの3つを経験したことで、どんなスタイルにも対応できるようなレスラーに成長できたと思う。

 UWAでは先に修行していたグラン浜田にお世話になった。スペイン語も分からない中で、彼がいただけで心強かったし、家を探してくれて、彼の運転で試合会場まで行って、タッグを組むことも多かった。そのおかげもあってメキシコのスタイルも早く覚えることができたね。

 メキシコに入ったばかりのころには「仮面貴族」として日本でも絶大な人気を誇っていたミル・マスカラスと6人タッグで対戦することができて、本当にいい経験をさせてもらった。それと俺はメキシコの中では大柄な方だったから、シングルはエル・カネックとよくやっていた。カネックも後々、忘れられない“事件”を起こすことになるんだけどね…。

 メキシコでの生活が10か月を過ぎた78年の年明け、ゴッチさんから電話がかかってきた。何とニューヨークのマジソンスクエア・ガーデンでWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦することが決まったという。自分のレスラー人生を左右する、最大級のチャンスがついに巡ってきた。