【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(12)】WWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するため、メキシコから米国・ロサンゼルスに入り、新間寿さんと合流した。アントニオ猪木さんの右腕としてらつ腕を振るっていた新間さんは、モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦で交渉役を務めるなど当時の新日本プロレスを支えていた。

 一緒にニューヨークに入ると、日本から来てくれたマスコミの取材を受けた。会社や周囲からの期待を感じる一方、プレッシャーにもなった。タイトルマッチ自体初めてだし、マジソンスクエア・ガーデン(MS・G)という舞台にもゾクゾク来るものがあった。何といってもスポーツの殿堂だしね。

 1978年1月23日は何年かに一度の大雪。あの日のマンハッタンの街並みと雰囲気は今も鮮明に思い出す。いざMS・GのリングでWWWFジュニアヘビー級王者のカルロス・ホセ・エストラーダと向き合うと、ゴッチさんが常に言っていた「どんな相手であろうと自分のイメージした動きをぶつけろ」という教えを忠実に実行した。今あの試合を見返しても、常に自分が先に先に動けているし、コンディションも申し分なかったとわれながら思うよ。

世界初公開のドラゴンスープレックスで王座を獲得した(78年1月)
世界初公開のドラゴンスープレックスで王座を獲得した(78年1月)

 手応えを感じていた試合の途中でゴッチさんから伝授された新技を仕掛けてみようと思った。それがフルネルソンで固めた相手を後方に投げて固めるドラゴンスープレックスだ。当時は名前すらもない、ゴッチさんでさえやったことがない世界初公開の技で3カウントを奪い、俺はWWWFのベルトを獲得した。

 試合が決まった瞬間のMS・Gは一瞬静まり返った。相手がケガをしたんじゃないかと思うくらい衝撃的な光景だったんだろう。エストラーダが起き上がって、レフェリーが俺の手を挙げるとようやく拍手喝采が巻き起こった。日本人のレスラーがスタンディングオベーションでたたえられたのは、世界初なんじゃないかとも思う。

 でも喜んだのは会場のファンと新間さんと日本から来たマスコミだけ。意気揚々と控室に帰ると、選手の冷たい視線が痛かった…。ブルーノ・サンマルチノやゴリラ・モンスーンらスターたちが勢ぞろいしていたのに、誰からも声をかけられない。世界初のドラゴンスープレックスは、それだけ危険な技に映ったのだろう。後になってビンス・マクマホン・シニアが「いい試合だった」と言ってくれた。それで救われたんだ。

 この試合は日本全国にもテレビ放送された。大分の田舎で生まれ育った俺がニューヨークでチャンピオンになる姿を、親父も兄貴も言葉にならないくらい喜んでくれたと、聞いた。そしてベルトを引っ提げて約3年ぶりに日本へと帰国することになった。