【プロレス蔵出し写真館】今から48年前の1976年(昭和51年)8月7日、新日本プロレスのブラジル遠征で〝伝説〟のケンカマッチが行われた。リオデジャネイロのマラカナン体育館で行われたウィリエム・ルスカVSイワン・ゴメス戦だ。
ルスカはいわずと知れたミュンヘン五輪の柔道金メダリストで、この年の2月6日、日本武道館でアントニオ猪木と対決。猪木の異種格闘技戦はここからスタートした。
一方、ゴメスは74年12月15日に新日プロが初めてブラジル遠征を行った際、第1戦のサンパウロ・コリンチャンスタジアムで、猪木に挑戦要求した。バルツーズ(バーリトゥードは当時こう呼ばれていた)で9年間(10年間という説も)王者でいると自称していた。
19日の第2戦、ロンドリーナ大会で「プロレスを教えてほしい」となぜか心変わりして、75年3月に来日を果たした。5月16日の日大講堂では藤原喜明を相手にプロレスデビューを果たし、27連勝を記録するなど前座戦線で活躍する。
翌76年2月まで〝修行〟を積んで帰国。5月には「全ブラジル選手権」を制し、ルスカ戦がジャーナル・デ・ブラジル紙のスポーツ面トップで報じられると、リオの町は大盛り上がりとなった。
ルスカと〝地元の英雄〟ゴメスの試合はメインイベントで行われた(写真)。ゴングが鳴ると、ゴメスは脇腹に左右の掌底攻撃を連打。みるみる赤く染まるルスカの体。反撃してヒジ打ちから強烈な柔道流の当て身をゴメスの鼻っ柱に叩き込む。鼻からは血が噴き出した。
ルスカは首を決めると跳ね腰から崩れ四方固め。ロープに逃れるゴメス。顔を血だらけにしたゴメスは懐に飛び込むとまたも掌底をヒットさせる。ヒザをついたルスカの頭をつかむとヒザを突き上げ、肩口にチョップ。ダウンしたルスカの腕を決めにかかる。
ブレークの後、ゴメスは執拗にルスカの脇腹にチョップ。ルスカは左手でゴメスを突き放すと右ストレートを右目にぶち込んだ。これでまぶたが切れ、ゴメスは9針を縫う裂傷を負う。ルスカの左腕を取ったゴメスは逆十字を狙うも逃げられると、背後からチョークスリーパーで捕獲。両者の体はロープを挟んでリングの内と外の体勢になり、レフェリーのミスター高橋はカウントを数え、9分3秒、エプロンに出ていたゴメスのリングアウト負けの裁定を下した。ルスカの右手を高々と上げると7000人の観衆から大ブーイングが湧き起こり、リングサイドに観客が殺到。暴動寸前の事態となった。
猪木が事態収拾にリングに上がり「この仇は私が討ってみせます」とゴメスの右手を上げ、ようやく沈静化した。
ところが、翌日「判定は納得しかねる」とリオデジャネイロ体育協会がルスカと高橋にブラジルにおける一切のスポーツ行動において出場停止処分を下す。これにより、ルスカは猪木との再戦が絶望的になり、11日にオランダに引き揚げた。
その後のゴメスは12日、ブラジリア・メジシ大統領体育館でストロング小林を手刀で圧倒し、11分24秒ダウンした小林の首を引き抜くように逆に決めて首固めでギブアップ勝ち。
14日のサンパウロ・エビラブイラ体育館では11分4秒、木戸修からまたも首固めで勝利を挙げた。
ブラジル遠征に同行した桜井康雄記者もゴメスの戦いぶりに驚きを隠せないでいた。当時の東スポに「プロレスより強い?!バルツーズ」と見出しが躍った。
さて、翌77年に来日したルスカは「ゴメスが俺の顔面を殴ってきたから〝殴っていいんだ〟と思って殴り返してやった。本当に強い奴は殴って、投げて、相手を殴る。柔道家が相手の顔面を殴ることができれば世界最強だ」とまくしたてた。
後年、バルセロナ五輪の金メダリスト吉田秀彦が「PRIDE」のリングで活躍したのもうなずける。
ところで、猪木は「すごいという噂は聞いていたが、バルツーズがこれほど実戦で強いとは…」とゴメスの戦いぶりに舌を巻いた。
ずいぶん後から、何でもありの戦いがバーリトゥードと認識され、総合格闘技というジャンルも定着。これにより、プロレスと格闘技が線引きされることとなろうとは…さすがの猪木も予見できなかった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る













