【プロレス蔵出し写真館】1986年(昭和61年)10月24日、オランダのマーストリヒトで「第4回世界女子柔道選手権」が開催され、この大会を取材するためオランダ入りした。当然、プロレスの東スポとして取材はこの大会だけではなかった。オランダといえば、あの男、〝オランダの赤鬼〟ウィリエム・ルスカだ。大会が始まる前日、23日にアポが取れた。
ルスカは、72年(昭和47年)のミュンヘン五輪の柔道男子で重量級と無差別級の2階級で金メダルを獲得。76年2月6日、日本武道館で「格闘技世界一決定戦」と銘打ちプロレスVS柔道としてアントニオ猪木と一騎打ち。猪木の異種格闘技戦の第1戦として行われたこの試合は、猪木がバックドロップ3連発で勝利を収めた。
ルスカは同年12月9日、蔵前国技館の再戦でも敗退。その後も、猪木が欧州遠征した際に何度か対戦し、韓国では、当時猪木が保持していたWWF認定世界格闘技ヘビー級王座にも挑戦している。新日本プロレスのシリーズに継続的に参戦していたルスカだが、80年11月の「第1回MS・Gタッグリーグ戦」を最後にプロレスと距離を置いていた。
ルスカはアムステルダムで飲食店を経営しながら、マスカル・パワー・ジム内の柔道場で25人の弟子を指導していた。ルスカが白帯時代からの師匠だというフリッツ・キレホフと撮影用に絡んでもらった(写真)。「今でも世界選手権に出場すればチャンピオンになれる」とキレホフ師はルスカの実力に太鼓判を押していた。
さて、ルスカが猪木との初対決を前に、講道館に出稽古に訪れた際には高校生の山下泰裕や、強化選手がバンバン投げられ、相手にならなかったという逸話もあったが、当の山下本人が興味深い話を披露していた。
〝日本最強の柔道家〟といわれ、現在、日本オリンピック委員会(JOC)の会長、山下泰裕氏は03年、東京運動記者クラブの運動部長会に招かれ講演を行ったが、その後の質疑応答で「猪木とルスカがやったときに、柔道が弱いみたいな形になってしまって、柔道が甘く見られるのは嫌だ。だったら俺もやってやるか、っていう気持ちになりました。しかし、その時はプロアマオープンではなかったし、そういうことをやって、プロの世界に接してしまったら、もう引きずり込まれてしまうので、もうそのことは考えずに自分は柔道だけをやることにしました」と、当時、高校生ながら〝猪木への挑戦〟が頭をよぎったという。
さらに「東海大に進んでから、私はルスカと乱取りをしたことがあります。周りの選手は手を止めて私たちの方を注目するんですよ」と笑い、「ルスカは強かったですよ。私と総合格闘技のルールでやったら? どうですかね。ただ、街なかでは喧嘩したくない相手ですよ」と語っていた。
ところで、ルスカは94年9月23日、横浜アリーナで「INOKI FINAL COUNTDOWN」第2弾で猪木と15年ぶりに対戦。エプロンでスリーパーホールドを決めて絞め落としたが、長州力にカツを入れられてよみがえった猪木に〝魔性の〟スリーパーを決められ戦意喪失、レフェリーがゴングを要請した。これが猪木と最後の試合となった。
去る2月14日はルスカの命日。脳出血で01年から闘病生活に入っていたルスカは、15年に74歳でこの世を去った。
プロレス界に貢献した、破天荒な柔道家を忘れることはないだろう(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














