【昭和~平成スター列伝】“炎の飛龍”こと藤波辰爾の自伝「炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道」が東スポプロレス面で好評連載中だ。第5回では1971年5月9日、岐阜市民会館で行われた北沢幹之(当時のリングネームは新海弘勝)とのデビュー戦についての思い出を語っている。
藤波は16歳の70年6月に別府温泉滞在中の北沢に日本プロレス入門を直訴。そのまま巡業に同行し、後に入門を認められてあこがれのアントニオ猪木の付け人となった。では藤波のデビュー戦の日、猪木は何をしていたのか。当時は春の本場所「第13回ワールド大リーグ戦」の最中で、猪木は2度目の優勝を狙って連日、激闘を展開していた。藤波のデビュー戦の日、1面では猪木の公式戦(アンジェロ・モスカ戦)が報じられている。
「決勝進出の望みを残すにはもう1敗もできない猪木は必死だった。序盤はモスカのペース。猪木は優勝への執念でドロップキック2連発。モスカを場外に吹っ飛ばしてロープに吊るしてネックブリーカー。痛めつけてロープに飛ばすと、はね返ってくるところへアタックしてコブラツイスト。だが足の切り込みが悪くモスカに吹っ飛ばされてダウン。猪木は水平打ちからハンマースロー、さらにもう一度コブラツイスト。執念のコブラが決まってモスカはギブアップ。猪木は決勝への望みをつないだ」(抜粋)
結局、猪木はジャイアント馬場と同点で日本人組の首位に立ったが、5月19日大阪の決勝トーナメントはくじ引きの結果、猪木はザ・デストロイヤーと対戦し両者リングアウトで引き分け。馬場がA・ブッチャーを下して優勝を果たした。対戦がかなわず結果を不服とする猪木が馬場に挑戦を表明するハプニングも起きている。
一方、当時17歳の藤波のデビュー戦は「〇新海 7分52秒首固め 藤波●」と結果が記されたのみだった。巡業に同行したころから藤波を知り、この大会を取材した本紙OBのプロレス評論家・門馬忠雄氏は「いがぐり坊主でとにかく食が細いし針金のようだった。でも猪木にあこがれて付け人になり、心身を鍛え上げて初志貫徹させた。雑用は多いし、並大抵の苦労や努力じゃなかったと思う。それでもひたむきにプロレスに取り組んで、カール・ゴッチ杯優勝(74年12月)も果たした。彼が超一流のプロレスラーになったのは、情熱以外の何ものでもなかった」と述懐する。
結局、猪木は71年12月に日本プロレスを追放されたが、藤波は迷わず猪木の背中を追い、新日本プロレス旗揚げに合流。「猪木さんと新しい団体を設立することに、うれしい気持ちでいっぱいだった」と振り返っている。そして72年3月6日大田区体育館の新日本プロレス旗揚げ戦から猪木とともに新たなスタートを切ることになる。(敬称略)













