【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(16)】1990年ごろになると、俺はヘビー級に転向した。ありがたいことに新日本プロレスのジュニアヘビー級では初代IWGPジュニア王座を巻かせてもらい、88年2月にはシングルのリーグ戦「トップ・オブ・ザ・スーパージュニア」(※)の第1回大会を優勝するなど結果を残すことができたと思っている。
ヘビーに転向した理由の一つは獣神サンダー・ライガーの存在だよ。これからはライガーが時代をつくるんじゃないかと思ったんだ。もう俺が出ていくところじゃないなっていうのがあった。それにジュニアの相手がいないこともあった。UWFが抜けたことで高田伸彦(現延彦)や山崎一夫がいなくなり「ジュニアでの使命は終わったな」って思っていた。
ジュニアは100キロ未満という規定で当時審判部長の山本小鉄さんに体重計に乗せられた。高田との試合も毎回、体重を量っていたんだけど、100キロ手前までいってから、もう減量はできないなというのがあった。だったら今後は、まだ闘魂三銃士(武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋)とやったほうがいいんじゃないかって思ってね。
84年にデビューした三銃士は衝撃だったな。最初から会社にプッシュされ、実力もあった。変な先輩たちがいないのもラッキーだったんじゃないかな。その代わり責任は重大だったと思うけど。
90年には藤波辰爾さんが「ドラゴン・ボンバーズ」というユニットをつくり、そこに入ることになった。メンバーは藤波さんと俺、ライガー、ブラック・キャット、飯塚孝之(後の高史)、南海龍、高見州。藤波さんが俺たちを呼んでユニットの方向性などを説明してくれたけど、さっぱり理解できなかったね(笑い)。でも、藤波さんに言われたら「ノー」と言えないというか…。
そういうのを経験しているから、平成維震軍のときはユニットの目的をはっきりさせてあげたいと思った。「本隊を潰しにいくよ」ってね。まあ藤波さんの言い回しが悪かっただけだけど、維震軍とやってることは同じだと思う。
とにかくさ、全部が全部いい方向にいってるんだよ。ドラゴン・ボンバーズは最終的にうまくいかなかったかもしれないけど、失敗を糧にみんながその後に上がっていってる。長州力さんだって1回新日本を出て、帰ってきてるけど「お前は全日本に行ったヤツじゃないか」なんていう人は一人もいないからね。失敗で下を向く人は新日本には誰もいなかった。
ここから、いよいよ平成維震軍につながっていくんだけど、きっかけはささいなことだったんだよな。
※ 88年に第1回が行われ、91~93年に連続開催。94年から「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に改称。













