【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(17)】1991年12月8日。平成3年が終わろうとしていた年の瀬が、平成維震軍設立のきっかけになった。当時、空手団体「誠心会館」の青柳政司館長が新日本プロレスに参戦していて、後楽園ホールにも門下生を連れてきていた。
その門下生が控室のドアを閉めたときに、閉め方が気に食わなかった小林邦昭さんが手を出してしまったんだ。俺はその場にいなかったから知らなかったんだけど、俺も後輩が言うことを聞かなかったら蹴飛ばすよね、当然。ささいなことだけど、このときは新日本の選手じゃなくて誠心会館のヤツだったから大ごとになった。長州力さんまで出てきたから。しかも誠心会館も折れなかったからね。小林さんは間違ったことはしてないとは思っていたけど、俺は困ったなとは思っていた。
その後、何大会かで小林さんと誠心会館の小競り合いがあった後、年が明けた92年1月4日の東京ドーム大会に彼らがやって来るわけだ。お客さんの反応はブーイングなんだけど、ボルテージがすごかった。あんなにボルテージを上げるなんて普通はできない。「こいつらすごい」って思ったね。同時に「やりたいな。俺がいくぞ」みたいな気持ちも芽生えていた。
1月30日の大田区体育館大会で小林さんが誠心会館の齋藤彰俊とやった。彰俊が勝った後、長州さんに呼ばれて「次はお前が行け!」と言ってくれて「来た!」だよ。この試合は全試合終了後に行われたんだけど、選手たちはみんな帰ってしまって、残っていたのは俺だけだった。だから、負けた小林さんが引き揚げてきても控室に一人もいない。選手会との抗争はそこが原因だね。「体張って出ていってんのに、何でお前らいないんだ?」ってもめたんだ。どんな形でも、全部終わるまで残ってるのが義務だろって思ったからね。
とにかくそこから誠心会館との抗争に火がついた。2月8日の札幌中島体育センターでは小原道由が彰俊と戦ったんだけど、このときも大変だったんだ。宿舎で小原の部屋に入ったら、血だらけのバスタオルが積んであった。中に入ると小原の額から血が噴き出している。すぐに「こりゃただごとじゃないぞ。救急車呼べ!」って、病院についていった。
札幌だから、みんな試合が終わったらススキノに遊びに行ってしまって、若手もいなかったから。小原も小原で、普通血が止まらないなら自分でわかるじゃん。なのに「何とかなると思いました」なんて言うから「バカヤロー! なるか!」って怒ったよ。あのヤローのおかげで、俺はその日、ススキノに行けなかった。この後、俺も抗争に入っていくんだけど、このころはまだ、平成維震軍に発展するなんて想像もつかなかったよ。













