まだまだやってやるって! 3月にデビュー45周年を迎える越中詩郎(65)の新連載「GET BACK~反骨のサムライ血風録~」がスタート。三沢光晴とのメキシコ遠征、高田伸彦(現延彦)との名勝負数え歌、そして伝説のユニット「平成維震軍」結成と波瀾万丈の半生を振り返る。坂口征二、ジャンボ鶴田、長州力、藤波辰爾、天龍源一郎と接し、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の2大巨頭を師匠に持つ〝侍戦士〟の原点とは――。

写真を見ながら半生を振り返る越中
写真を見ながら半生を振り返る越中

【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(1)】

 ――全日本プロレスで馬場さんの付け人、新日本プロレスで猪木さんのパートナーを務めた

 越中 新日本一本とか、全日本ひと筋もいいけど俺一人、ニコニコって感じかな。自分を正当化することはないけど、俺自身はすごい経験を積み、すごい人の下でやれたという充実感がある。それは今でも生きてるね。勲章であり、どんなものよりも大きな財産だよ。

 ――猪木さんと最初に会ったのは1985年の全日本離脱直前のハワイ

 越中 俺には全く期待してない感じがあったね(笑い)。「ああ、全日本から来るの?」って感じで。ただオーラっていうのかな、ちょっと違った。例えば移動の時、猪木さんと馬場さんだけは東京駅や羽田空港で人だかりができる。できるなら、リラックスしたジャージーなんかで来たいじゃん。だけど猪木さんは東京駅に来るとスーツをビシっと着ていた。しかも、同じスーツを見たことがない。簡単に言うけど、簡単にできることじゃないよ。

 ――猪木さんとの接点で印象に残っているのは

 越中 部屋に呼んでくれて「世界一の金持ちになりたかったら、俺の話を」って言われてね。説明してくれるんだけど、さっぱりわからない。牛のフンがどうとか、永久電池とか(笑い)。平成維震軍をやっていた時、新日本の事務所で小林(邦昭)さんと「住宅ローンが大変だ」なんて話をしてたんだ。そうしたら猪木さんがたまたま入ってきて「お前ら夢がない。俺は2~3年したら世界一の金持ちになってやる」って…。想像もつかないことを自信満々で言っていたよね。

 ――他にもあるのか…

 越中 練習が始まる1時間くらい前に道場に来たことがあって「多摩川にランニングに行ってくる」って石澤(常光)たちと出て行った。なのに午後2時、3時になっても帰ってこない。そうしたらタクシーで帰ってきてさ、石澤に聞いたら「奥多摩までランニングで行って、折り返しはできないからタクシーで帰ってきた」と。80~90キロを5~6時間かけてだよ。並の人じゃないよね。

 ――感性も違う

 越中 だからモハメド・アリに何十億払って借金しても、猪木さんに言わせれば「お前ら夢がない。借金してもやる時はやれよ」だよ。普通の人は背負えない額だけど、背負えるのがすごい。

伝説の「平成維震軍」(1993年)
伝説の「平成維震軍」(1993年)

 ――平成維震軍を立ち上げたのは

 越中 それは猪木さんの姿を見てるからだと思う。絶対に猪木さんの影響があるね。とにかく一歩踏み出せと。あとはあとでいいじゃないかみたいな割り切りが、俺らの感覚だと失敗したことを考えるじゃない。それが猪木さんには一切のプラス思考しかないから。

 ――馬場さんとは違う

 越中 性格も違うし、スタイルも違う。それぞれプライドがあるしね。馬場さんは最後の最後まで俺に対して、腹の底では「付け人までやらせてお前を育てたのに、出ていきやがって」というのがあったと思う。でも、猪木さんはそういう恨み方はしない。新日本からいっぱい出ていったけど、誰一人として「あのヤロー、出ていきやがって」みたいなのはなかった。

 ――2022年10月に猪木さんも死去した

 越中 亡くなる前(20年9月)に信州プロレスという団体に呼ばれたんだけど、猪木さんが来るとなってビックリしてね。あいさつに行ったら、「来てくれたか」って顔が崩れるくらいの笑顔だった。あんなうれしそうな顔は見たことがない。あれが最後だったなあ。

 ――新日本と全日本はおととし50周年を迎えた

 越中 もっともっと大きくしてもらいたい。全日本は差をつけられている? 俺が新日本にいた時もそうだけど、人気商売は波がある。辛抱強く「いずれ」という気持ちでやってほしいね。そこは新日本の選手は伝統的として慣れているから。やっぱりこの2団体が切磋琢磨してこそ。頑張ってほしい。

長期連載もやってやるって!
長期連載もやってやるって!
 

 ☆こしなか・しろう 1958年9月4日生まれ。東京都出身。高校卒業後に電気工事関連の会社に就職するも78年に全日本プロレスに入門。79年3月5日の館山市民センター大会で公式戦デビュー(対薗田一治)した。85年に新日本プロレス移籍を決意。86年にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得し、92年に反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成した。2003年に新日本を退団し、WJプロレスを経てフリー。185センチ、105キロ。