【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(2)】1958年9月4日、父・誠太郎、母・よし子の長男として東京・江東区で生まれた。覚えているのは小学2年のころ、狛江に移ってからだね。

 当時はまあ、やんちゃだった。やんちゃじゃなかったら、他の仕事に就いてたよ(笑い)。学校が終わって帰ってきたら玄関に入らず、庭にカバンを放り出して遊んでいた。近所に多摩川があって土手があって、場所によっては小川が流れていて遊ぶところには苦労しなかったから。肥だめに落ちたやつもいたなあ。

 そうそう釣り堀があってさ、エサは高いからたばこのフィルターを針につけて金魚とかを釣っていた。そうしたら釣り堀のオヤジが怒って「逃げろ~!」ってね。あとね、多摩川で泳ぎましたよ。本当はダメなんだけど、母親がうるさいからって連れてってくれた。中学1、2年のころ、多摩川が決壊したこともあって高台の成城に避難した。自宅は被害がなかったけど、同級生で家を流されたやつがいたなあ。

 小中学時代は野球をやりたかったんだけど、校庭が狭くてバットを振っちゃいけなかった。当時から阪神ファン。巨人がV9時代(※)で関東はテレビ中継も巨人だけだから、周りは圧倒的に巨人ファンだよ。あまりに強いので、そこに向かっていく万年2位阪神の姿が好きだったんだ。そのころから反骨精神があったのかな。

東京工業高野球部3年の越中(右から3人目)は主将を務めた(本人提供)
東京工業高野球部3年の越中(右から3人目)は主将を務めた(本人提供)

 東京工業高(現日本工業大学駒場高)では野球部に入部した。3年でキャッチャーとキャプテンを任されたけど、レベルは高くないので実力は知れてるよ。卒業して東電の下請け会社に就職した。でも2年くらいで「後で後悔するだろうな」ってふと思ったんだよ。「俺は何をやりたいんだろう?」と考えたとき「ああ、プロレスをやってみよう」って。ただ当時は入門するのが難しかったじゃん。友達と会場を見に行ったけど、余計に「これは無理。できないな」と思っていた。

 それで野球部の監督に「プロレスをやってみたい」と言ったんだよ。そうしたら「わかった。今から行くぞ。一発ぶん殴られる覚悟でいろよ」って、一緒にレスリング部の監督に会いに行くことに。俺が卒業した高校はレスリング部が強くて、幅を利かせていた。

 レスリング部監督は160センチちょっとで強かった人なんだけど「俺もでかかったらプロレスラーになりたかった」って言ってくれてね。レスリング部には全国大会に出るヤツらもいたけど、ヘビー級じゃない。当時の俺は185センチくらいあったからね。「全日本プロレスなら連絡が取れる」と言われ、それからすぐですよ。「1週間後に(ジャイアント)馬場さんが会ってくれるから行ってこい!」って。こうして運命の扉が開いたんだ。 

※ 長嶋茂雄&王貞治のON砲を中心に65年から73年に達成。