【プロレス蔵出し写真館】広島の三原市内の焼肉店に新日本プロレスのメインイベンターが集合した。
藤波辰爾が音頭を取って集まったメンバーは武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、馳浩の5人。
今から30年前の1993年(平成5年)6月3日、広島・三原大会で正規軍VS反選手会同盟の12人タッグマッチが行われた。藤波、武藤、蝶野、橋本、馳、小原道由組が越中詩郎、木村健悟、ザ・グレート・カブキ、青柳政司、小林邦昭、齋藤彰俊組と対戦。小原が越中と木村の合体パワーボムの前に沈んだ。
長州力は鼻骨骨折で戦線離脱中。新日正規軍は、反選手会同盟の猛攻に押されっ放しだった。
そこで、試合後の緊急ミーティングとなったのだが、なにやら楽しそうな雰囲気だ(写真)。
よく見ると肉の上に顔が…。
実はこれは写真撮影用。反選手会同盟の顔写真を肉の上に置いて〝反選手会同盟を食ってやる!〟という設定でお願いした企画だった。このバカバカしいアイデアがウケた。橋本はノリノリで塩まで振りかけるサービスぶりだった。「カブキが燃えちゃったよ」。そう言ったとか言わなかったとか…。
さて、この後、反選手会同盟には8月8日の両国大会で新日を裏切り小原が加入。10月1日、札幌大会ではレイジングスタッフを裏切った後藤達俊が参加。勢力を拡大した反選手会同盟は11月15日、千葉・養老渓谷での合宿で「平成維震軍」と改名を発表した。
さて、反選手会同盟を引っ張っていたのは〝侍〟越中詩郎だ。
全日本プロレスに入門した越中は、84年(昭和59年)に三沢光晴とともに海外初遠征のメキシコ遠征が決まった。出発する前、現地での宣材用にハッピ姿の写真を道場で撮影した。2代目タイガーマスクになる三沢が帰国すると、一人メキシコで奮闘した。
85年7月10日に帰国した越中は、12日に全日が興行を行う青森・八戸市へ向かった。選手の宿泊先「柏木旅館」のロビーからジャイアント馬場に電話していたが、サバサバした表情が印象的だった。
越中はこの年、1月31日付けで馬場と松根光雄社長宛に辞表を提出してフリー宣言した。新日マットに登場すべく坂口征二副社長と接触を持ち、その際、「クリアすべき問題をクリアしてからでないと話し合いはできない。越中は馬場さんと話し合うべきだ」と言われていた。
越中と約1時間30分に及ぶ話し合いを持った馬場は、「越中に対して『お前はウチの選手なんだから、そういうことをしちゃいけないよ』とだけは言っておいた。越中本人は迷っているようだった…」と見解を語った。
しかし、新日の対応は素早く、越中の身柄を一任されたアジアプロレスの岩田浩会長が全日と折衝を重ねて問題が解決した。
そして、8月23日(東村山大会)にブラック・キャットと待望の新日移籍第1戦を行った。
数週間後、酒席をともにした越中は「厳しいよね」。新日にはまだ馴染めていないと吐露し、「武藤はセメントで来たからね」と言ったのには驚いた。全日出身者に予想以上にカタい対応が待っていたようだ。
また、「馬場さんは若手や新弟子をただの雑用係ぐらいにしか思っていなかった。オレは馬場さんに相撲の新弟子並みの世話をさせられた。それが苦痛だった」と明かした。
ところで、越中が新日に受け入れられたのは、やはり86年からのUWFの高田伸彦(後の延彦)との激闘がきっかけだろう。高田のキックから逃げずに〝人間サンドバッグ〟になりながらも、耐えて反撃する姿はファンの感動を呼び、人気を博した。
全日出身の越中が、新日で欠かせない選手になっていった。新日へ移籍して一時代を築いたと言っても過言ではない(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














