【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(3)】1978年7月28日の全日本プロレス品川プリンスホテルスケートセンター大会。試合前のジャイアント馬場さんを訪ねた。控室の入り口で本当に馬場さんが来て「練習を見てるのはジャンボ(鶴田)だから待ってな」って「ジャンボ!」って呼んでくれた。何で馬場さんはあのとき俺と会ってくれたのか聞きたかったよね。「人がいなかったからよう」って言うかもしれないけど(笑い)。

入門したての越中は線も細かった(78年10月)
入門したての越中は線も細かった(78年10月)

 ジャンボさんは「1週間後に合同練習が始まるから練習着を持ってきなさい。ただし入門の許可をしたわけじゃないよ。1か月、2か月後になるかわからないけど合否は出すから一緒に練習しなさい」と。それで1週間後に練習に行って、今に至るわけだ。馬場さんもジャンボさんも初対面だったけど、でっかいなって。ただ「できそうもないな」という気にはならなかった。2人を見ておじけづくならやんないほうがいいじゃない。

 1週間後、自宅の狛江から世田谷区砧の道場に自転車で通った。坂を上ると20分くらいなんだけど、それもまた不思議でね。小中高と過ごした町の隣だから。自転車をこいで道場に行く道は見慣れた景色だった。

 当時の全日本は「三羽ガラス」と呼ばれた渕正信さん、大仁田(厚)のオッサン、薗田さん(※)がいて、一番若い薗田さんとはそんなに年齢は変わらないけどキャリアが5年くらい違う。大仁田のオッサンは年は1つしか違わないけど7~8年違う。雑用する人がいないのは事実だから、そういうラッキーなところはあったよね。

 ただ、若いのは俺しかいないから練習は厳しかった。初日に受け身を200回くらい取らされ、次の日の朝は起きられなかった。全身筋肉痛でアザだらけ。マットだって硬いし、ロープワークでワキ腹付近にでっかいアザができた。

 次の日なんか満足に練習できない上に「何やってんだ!」ってやらされてさ。最低限の練習メニューは入る前からわかるじゃない。腕立ては何百回やらなきゃいけないとか。自分でやってるときは自分のペースでできるけど、先輩と一緒に声出ししながらやると、50回くらいでハアハア言ってしまってね。スクワットも300回くらい平気でできたのに、100回もできなかった。

 当時指導してくれたのは百田光雄さんと渕さん。ジャンボさんが来たときはジャンボさんだった。その厳しさを我慢したからこその今の自分かなって思うけど、入門1週間は一生忘れない。

 入門の許可が出て合宿所に入るまで半年くらいかかったのかな。入門を認めてもらうまでに何十人も辞めていった。こうしてジャンボさんが寮長を務める寮での生活が始まるんだけど、まあいろいろあってね…。

※ 薗田一治。後のハル薗田。87年11月に航空機の墜落事故で死去。