【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(14)】全日本プロレスを退団した俺は1985年8月1日、アジアプロレス所属として新日本プロレスの両国国技館大会であいさつした。アジアプロレスは坂口征二さん(当時新日本副社長)が「お前よう、ワンクッション入れるからよう」って直接全日本から新日本に移籍するのを避けたんだ。

 長州力さんたちが直接全日本に行った後(※)だから、心の中では「抜かれたんだから抜き返した」というのがあったかもしれないけど、ジャイアント馬場さんに気を使ったんだよ。だから俺は坂口さんと馬場さんの間に挟まれていただけ。そもそもアジアプロレスって実態あったのか?(笑い)。いつの間にか名前が消えていたし…。

 同じプロレスだけど全日本と新日本は全く違うので、最初はそれに戸惑った。やっぱスタイルだね。全日本は受けで、相手の技をくらって受け身で自分を守るみたいな感じ。でも、そういうスタイルでいったら新日本ではできないなって感じた。新日本は基本、攻めなんだよ。「試合が始まって組んだときから攻めていけ」っていう。だから受け身の練習より攻めだった。道場の練習から違うんだから。練習も緊迫感があったね。

 こうして俺は新日本プロレスに移籍した。一つの団体で通すのも立派だし、別に自分を正当化するつもりはない。ただ当時はビッグ団体が2つしかなかったし、その両方にいられたのは幸せで、いい経験ができたなと思う。今振り返っても、最高の選択だった。あそこで坂口さんに会ってなかったら、一生アントニオ猪木さんとか藤波辰爾さん、長州さんとも会ってない。人間としての幅が広がったと思う。

 そもそも、普通なら新日本が俺になんか目をかけないよ。でも、長州さんたち十何人がごっそり抜けた後で、武藤敬司や蝶野正洋は(84年に)デビューしたばかり。それもラッキーだった。ポンと空いたわけだから。ただ、アジアプロレス所属として両国であいさつしたときなんか「どこのどいつが来たんだ?」「やっていけるのか?」みたいな反応だった。

 だから、1986年2月6日に「IWGPジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」の決勝でザ・コブラに勝って、初代チャンピオンになっても受け入れてくれる感じではなかった。普通ならチャンピオンになって控室に帰ってきたら、みんなで万歳だよ。俺はそのとき1人で万歳もなかった。後ろには誰もいないし、乾杯の音頭さえ取ってもらえなかった。

コブラ(上)を下しIWGPジュニアの初代王者に(86年2月6日、両国)
コブラ(上)を下しIWGPジュニアの初代王者に(86年2月6日、両国)

 でも、この孤独さとかはじかれ方とか「お前らにわかるか」っていう思いが、力になっていくわけだ。だから、プロレスラーとしての人生が続いたと思う。流れが変わったのは、“あの男”と出会ってからだね。

 ※ 84年9月に長州ら後のジャパンプロレス勢は新日本を離れ、主戦場を全日本に移した。