【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(15)】1986年、新日本プロレスのリングに前田日明、高田伸彦(現延彦)、藤原喜明、山崎一夫、木戸修らのUWF勢が大挙して押し寄せて抗争がスタートした。

前田(右から2番目)率いるUWFとの抗争が激化。左端が越中(86年9月16日、大阪)
前田(右から2番目)率いるUWFとの抗争が激化。左端が越中(86年9月16日、大阪)

 ただし新日本の選手とかみ合う人は誰もいなかった。Uの連中は「俺たちは新日本を出ていってこういうスタイルになったけど、あなたたちにできるんですか?」みたいに胸を張っているし、新日本に残り続けている選手は「アイツら出ていったのに、帰ってきて何でかい顔してんだ」って感じだから意地の張り合いだよね。

 俺は新日本の生え抜きじゃないからその辺の事情は全くわからない。真っ白な気持ちで彼らと向き合ったけど、Uのヤツらは「全日本育ちでしょ?」みたいな感じで、もっとバカにしてきた。それを肌で感じて、さすがにカチンときたよ。だから目の色を変えて向かっていったし、自然と試合も熱くなった。

 俺が持っていたIWGPジュニアヘビーのベルトをかけて高田とやったのは、86年5月19日の後楽園大会だ。KO同然で負けたけど、お客さんから拍手をもらったんだ。そのとき、俺も初めて新日本の一員になったのかなって思ったね。

 UWFとの抗争では、高田が向こうにいたのが大きかった。蹴られ続けた俺は「人間サンドバッグ」なんて言われたけど「ジュニアの名勝負数え歌」と言ってもらい割と評価された。例えばシリーズが30試合くらいあるとする。Uの選手や外国人選手がいる中で、上の坂口征二さんや藤波辰爾さんは外国人選手とやる。そうすると俺の相手には毎日、必ず高田が入っていた。前田、高田組、高田、山崎組、高田、木戸、藤原組を相手するのは、全部俺だよ。毎日のように当ててくれたのは(当時副社長の)坂口征二さんだろうし「お前がやってくれれば大丈夫」という会社の信用もあったと思う。

 それが2年続いたんだけど、88年のシリーズの頭で「Uは抜けたから」って彼らがポンといなくなってしまった。Uがいたから俺の株が上がったわけだし、ケガするかしないかくらいの試合を毎日やっていたわけだから、抜け殻みたいな気持ちになった。すぐにシリーズが始まったけど、高田だったら俺が殴ったら2発返ってきたけど、返ってこない。俺はどうなっちゃうのかな?って思ったね。

 気がつくと「この会場の駅はどこが一番近い?」って聞いて駅に向かっている自分がいた。「これからのプロレス人生どうしよう」くらいの深刻さがあったから。そこでよく引き返せたなって思うよ。こうして高田というライバルを失った俺はジュニアを卒業することになる。ジュニアに才能を持った覆面レスラーが出てきたのが一つの理由だったんだ。