【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(12)】三沢光晴とメキシコ遠征に来て4か月がたった1984年7月、ジャイアント馬場さんから連絡が来た。「三沢を何時何分の飛行機にちゃんと乗っけろよ」という指示だった。こうして三沢だけが先に帰国し、2代目タイガーマスクになる。メキシコに残された俺は、その後も厳しい環境で孤軍奮闘を続けた。
当時は治安がめちゃめちゃ悪かった。だってスーパーの警備員が背負っているのが、連発式の自動小銃だから。毎週日曜日はアレナ・コリセオという後楽園ホールみたいなところで試合だった。会場までは車に乗せてくれる人がいたんだけど「降りたら体育館まで走れ」って。メキシコシティーの中でも犯罪者が逃げてくるような一番治安が悪い地域のド真ん中に会場があったんだよ。だから警察も入ってこない。
夜にキャバレーに連れていってもらった時なんて、突然「パン、パン」って音がした。俺らはピストルの音って映画やドラマでしか聞いたことがないじゃない。全く違う音だよ。乾いた音というか。見ると客が天井に向けて発砲してるわけだ。現地のやつらはみんなわかってるから、机の下に伏せている。「みんな何やってんだ?」って思っていた俺が一番最後に隠れたね(笑い)。
そんなところに2年もいて何もなかったから「奇跡に近い」と言われた。もちろん、日本に帰りたい気持ちもあったよ。あれはアグアスカリエンテスという街に行ったとき。星を見ながら「日本はどっちなんだ? 何で俺はここにいなきゃいけないの?」って思っていたら歩いてくるやつが2人いた。「越中さんが出るんで試合を見に来ました。この街で料理をつくっています」って。それが日本人だったんだよ。日本人ってすごい、こんな街にいるのかって。そこでまた立ち直ったね。
そのころ三沢がタイガーマスクになって、オフにメキシコに来てくれた。「お前に心配されるようなあれじゃねえよ。大丈夫だよ」って言ったけど、彼は彼で大変だったと思う。あまり評判はよくなかったみたいだし、長州力さんたちも全日本プロレスに来ているし、ひと息入れたかったんじゃないかな。
俺にも感激したことがあった。新日本プロレスの坂口征二さんと連絡が取れるようになって、ロサンゼルスに2回呼んでくれた。坂口さんの素晴らしいところは「全日本を辞めてウチに来い」とはひと言も言わなかったこと。「メキシコで頑張ってるんだってな。俺もメキシコはよく知ってるから。うまいもんでも食って帰れ」って1週間くらい好きなもの食わせてくれた。そしてハワイでも会ったんだけど、これが人生の転機になったんだ。













