【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(10)】1983年4月22日。札幌中島体育センターで行われた「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」で、デビュー5年目の俺は三沢光晴と決勝で対戦し、優勝を果たした。

特別レフェリーのルー・テーズから祝福された(83年4月22日、札幌)
特別レフェリーのルー・テーズから祝福された(83年4月22日、札幌)

 三沢が入門したのは81年3月だから、俺より3年後輩になる。何でも「レスリングの国体で2位になった」「ジャンボ鶴田さん以来の逸材」だとか聞いて、どんなヤツが入ってくるのか身構えた部分はあったよ。でも謙虚でおとなしい男だったんで、逆に「あれっ?」って。それまでトンパチみたいなヤツしか見てなかったからね。

 後藤政二(後のターザン後藤)とか大仁田厚のオッサンとか。三沢は素直だったし、それがプロレスにも出ていた。タッグ組んだときは必ずフォローしてくれたり、そういうのはいなかった。優秀で練習もこなし、入門から5か月でデビューはなかなかないよ。おとなしかったんで、あまり会話はなかったけどね。

 一番印象に残っているのはシリーズに向けて東京駅に行ったときの話。三沢がホームで「具合が悪いんです」と言うんだ。見たら顔がまっきっき。「ちょっとおかしいよ。病院で診てもらえ」って帰した。巡業地でジャイアント馬場さんに報告したら「何で帰したんだ」って怒られたけど、肝炎か何かで即入院。何で道場で言わなかったんだって思うけど、もし巡業に付いてきたら大変なことになっていた。

 このころは佐藤昭雄さん(※)が米国から帰ってきてね。「全日本のことを考えたら、早めに越中や三沢が海外に行って一人前になってくれれば明るいものが見えてくるんじゃないですか」と進言してくれたんだ。

 馬場さんは「俺とジャンボ(鶴田)がいるからいいんじゃないか」という感じだったけど、昭雄さんのおかげでルー・テーズ杯に出たり、メキシコ遠征に行けるようになった。馬場さんは「何でお前がメキシコに行くんだ。お前が行ったら付け人は誰がやるんだ?」と怒ってたけど、そんなこと言われたって、こっちだっていつまでもやりたくないよ…。

 俺と三沢は84年3月6日に日本を出発し、メキシコに行く前、昭雄さんがいるサンフランシスコに寄った。空港まで迎えに来てくれて、自宅に招待してくれた。「これからはお前らが必要だから、頑張ってこい」ってケツを叩いてくれてね。

 昭雄さんは言いたいことを言うタイプだったから「お前に何がわかるんだ」みたいな感じで最終的に馬場さんに嫌われちゃうんだけど、今思うと何で昭雄さんに任せなかったのかなって。全日本にはそういう優秀な人がいたんだよね。こうして俺と三沢はサンフランシスコで2日を過ごし、メキシコに入ったんだ。

※70年10月に日プロでデビュー。全日本離脱後はWWFで活躍した。