【越中詩郎GET BACK~反骨のサムライ血風録~(6)】

ジャイアント馬場(下)を暴行するシークを越中(奥)らが止めた(81年6月6日、北海道・上川町)
ジャイアント馬場(下)を暴行するシークを越中(奥)らが止めた(81年6月6日、北海道・上川町)

 1970年代後半から80年代の全日本プロレスは、外国人選手もバラエティーに富んでいた。アブドーラ・ザ・ブッチャーにザ・シーク、そしてミル・マスカラス。巡業中は俺がお世話をすることが多かった。マスカラスは荷物が多かったんで大変だったよ。でかいスーツケースを3つも4つも持って移動するんだけど、中身は全部コスチューム。それを俺が1人で運ぶんだから。

 そうそう、これはデビューした後、メキシコ遠征での話なんだけど。バスに乗って5~6時間移動して会場に行ったことがあった。「どんな街?」って聞いたら「ロスに近い国境に近い田舎街だよ」っていうから、地元の選手と試合をするんだろうと思っていた。そうしたらマスカラスがいて俺とタッグを組んだ。昔はカバンを持った相手と組むんだから、不思議な感覚だよね。

 その後もフリーになって新日本プロレスに戻ったときだから2007年かな。浅井(嘉浩=ウルティモ・ドラゴン)に「久々にメキシコに行きたいな」って言ったらブッキングしてくれてね。「何かリクエストありますか?」と聞かれたから「久々にマスカラスに会いたい」って言ったんだよ。そうしたら「僕、連絡取れます」とコンタクトしてくれたんだけど「7時にホテルでアポが取れました。越中さん、間違えないでくださいね。朝の7時ですから。マスカラスは夜は早く寝ちゃうんで朝しか会えませんから」って…。

 こっちは前の晩に試合して2時過ぎにホテルに帰ってきてるんだよ。「バカヤロー。それにしたってテメー、朝の7時かよオイ! それを先に言えよ!」ですよ(笑い)。でも本当にブッキングしてくれて、3人で朝飯を食いましたよ。

 あと新弟子時代のブッチャーとシークの話もしようか。ブッチャーは最終戦が終わると俺を呼んで、「お前、シークからいくら小遣いをもらった?」って聞いてくる。「もらってないですよ」と言うとニタッと笑って1万円くらいくれるんですよ。「シークはくれないだろ?」っていうのが彼の自慢。相当意識しているわけですよ。こっちは「3万くらいよこせコノヤロー」って思っていたけど(笑い)。

 俺が入門して2年後に後藤政二(※)が入ってきたけど、仕事は楽にはならなかったね。あのバカ、全く使えないから、言ってもわからない。落ち着いたのは、さらに1年後に三沢光晴が入ってきてからかな。例えばガウンを畳んでおけよとか言うと、三沢は一発でわかる。後藤は何回言ってもダメだったから「テメー、何回言わせんだコノヤロー」って。

 三沢の1年後に川田利明が入ってきて、冬木弘道が入ってきて道場がにぎやかになってうれしかったね。そんなとき、馬場さんから…。 

 ※ 後のターザン後藤。89年からFMWで活躍し、22年5月に死去。