【平成球界裏面史 近鉄編31】平成26年(2014年)5月6日の巨人戦(東京ドーム)での出来事がきっかけだった。このシーズンで41歳になっていた中村紀洋が事実上の〝引退状態〟となったのは。DeNAが1点リードしていた8回無死一塁の場面で一走・梶谷が激しく動きを見せながら盗塁を企図。中村は強引に打って出て三ゴロ併殺に倒れた。

ベンチで腕組みする中村紀洋(2014年5月)
ベンチで腕組みする中村紀洋(2014年5月)

「場面によっては走者を動かさず、打席に集中させてほしい」。首脳陣への相談が批判と判断され翌日に登録抹消。これが中村にとってNPBでの最後の試合となった。

 中村は懲罰的抹消の経緯をSNSで公表に踏み切った。一晩で24万ものアクセスが集中しコメントは2000件超。ファンの間でも賛否両論が飛び交った。中村擁護派のコメントにはDeNA・高田繁GM、中畑清監督への批判も数多く寄せられた。慌てた高田GMは5月8日に中村と会談の場を設け必要戦力であるとは伝えた。ただ、シーズン終了まで〝懲罰的抹消〟を継続し続けた。

中畑清監督(左)と高田繫GM(2012年4月)
中畑清監督(左)と高田繫GM(2012年4月)

 中村はその後、本拠地限定で二軍戦に出場。チームの遠征で2週間近く実戦から遠ざかることもあったが「実戦勘が鈍って130キロ台のボールが剛速球に見えてしまうような感覚もあった。それでも対応できたのである意味、自信にもなった」と一軍のグラウンドに戻るため準備を続けた。8月にはイースタン・リーグで月間4割を超える打率も記録した。それでも、高田、中畑体制のベイスターズは中村を飼い殺し続けた。

楊枝秀基記者のインタビューに答える中村紀洋(2014年11月)
楊枝秀基記者のインタビューに答える中村紀洋(2014年11月)

 シドニー、アテネの五輪では日本代表のサードも務めた中村。13年には2000安打も達成した。14年はプロ23年目のシーズンだった。客観的にみて球界の功労者といえるはずだ。中村にとっては屈辱だったはず。水面下では引退試合も打診されたというが当然、本人からの断りで実現はしなかった。

 9月27日、イースタン・リーグでのベイスターズの最終戦(対ロッテ)は中村にとってNPBでの現役最後の試合となった。集まったファンは、これが中村の現役最後の試合になるかもしれないことを知っていた。打席に入る際「暴れん坊将軍」のテーマが鳴ると大歓声が沸き起こった。そんなスタンドの一角には、中村を支え続けてきた浩子夫人の姿もあった。球界の功労者の最後としてはあまりにも寂しい結末だった。

スタンドのファンに手をふる中村紀洋、これが現役最後の試合となった(2014年9月)
スタンドのファンに手をふる中村紀洋、これが現役最後の試合となった(2014年9月)

 10月3日、DeNAから戦力外通告を受けた。12月2日には自由契約選手として公示。12球団トライアウトは受けず、他球団のオファーを待つ形で現役続行の意思を表明したが、獲得に名乗りを上げる球団は現れなかった。

 04年に近鉄バファローズが消滅して10年の年月が経過していた。帰る家をなくした「いてまえ打線」の4番サード・中村紀洋は、その10年間でドジャース、オリックス、中日、楽天、DeNAと5球団を渡り歩くことになった。

 翌15年、中村の去就には注目が集まったが、所属球団がないまま月日は過ぎていった。任意引退選手ではなく自由契約選手。現実的ではないが今でもNPB12球団と契約が可能だ。独立リーグなど複数球団から中村獲得のオファーがあったが全て断った。そして中村はあえて「現役引退」ではなく「生涯現役」を宣言し、次のステップへと目を向けていった。

中村は所属先も決まらぬまま自主トレを続けた(2014年11月)
中村は所属先も決まらぬまま自主トレを続けた(2014年11月)