【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録】今年3月に行われた第5回WBCで、侍ジャパンは世界一に輝いた。ローンデポ・パークでの決勝戦、米国との死闘を制し、侍たちが頂点に立った瞬間を、特別な思いで見ていたのが元ヤクルトの赤川克紀氏(33)だ。その視線の先には、かつての“相棒”であり、世界一の胴上げ捕手となったヤクルト・中村悠平捕手(33)の姿が…。どんな思いで見ていたのか。
赤川氏は2008年のドラフト会議でヤクルトから1位指名され、宮崎商からプロ入り。3年目に6勝(3敗)、4年目には8勝(9敗)を挙げ、球宴にも出場するなど、大型左腕として大きな期待をかけられていた。
そんな赤川氏と同じ08年のドラフト3位で、福井商からヤクルトに入団したのが中村だった。以来、2人は「戦友」であり、お互いの「支え」だった。
プロ入り当時を振り返り、赤川氏は「(ヤクルトに)入りたてのころはムーチョ(中村の愛称)とお風呂や食事もずっと一緒だった。自分が一番同じ時間を過ごして野球の話ばかりしていた」。とはいえ、楽しい思い出ばかりではない。高校を出たばかりの選手がいきなり一軍で通用するほどプロは甘い世界ではなかった。
そんな中、2人とも少ない機会ながら1年目から一軍で試合に出場するチャンスをもらった。
「その年(09年)はFAで相川(亮二)さんが入ってきた年で、ムーチョはいろんなベテランの投手の投球術の引き出し方とか投球面を、いろいろ聞いたりしてました」
中村が一軍での出場試合数を増やしていったのは、4年目の12年から。一軍での活躍は赤川氏のほうが先だった。その12年4月21日には赤川―中村のバッテリーで巨人戦で完封勝利をマーク。これが赤川氏のプロ初完封勝利となった。それでも中村は、周囲からは若さゆえのリードのまずさを指摘されるなど、捕手としての経験はまだまだ足りなかった。
だが、同期としてバッテリーを組むことも多かった中で、赤川氏は中村の持つ「強み」に気づいていた。
「ムーチョは本当、投手と親身になって細かいところまで話すんです。捕手主導ではなくて、投手の気持ちや技術を尊重しながら自分の配球を組み立てていく」と、とにかく相手に寄り添うことで「投手のいいところを引き出すのが本当にうまかった」と明かす。
経験とともに得た配球面の成長だけではなく、そのコミュニケーション能力の高さもまた、中村を「日本代表の扇の要」にまで押し上げた要因の一つとなっているのだろう。
「WBCはすべて見ていた」という赤川氏。決勝戦を見て「大谷(翔平)が9回のマウンドに行く場面。大谷と話し合いながら歩いているのを見ると、ムーチョらしさが出ていると思った」。相手が新人であろうが、大ベテランであろうが関係ない。それこそ世界一のプレーヤーだとしても、臆せず行くのが“中村らしさ”なのだという。
「最後のトラウトとの対戦で、スライダーを捕って大谷と抱き合っているところを見ると、すごくうれしかった。すごく心に残っています」
自身は7年目のオフに戦力外通告を受け、25歳の若さで現役を引退。それでもかつての相棒の晴れ姿には、自分のことのように心が動かされた。「ムーチョは同期入団の誇り。活躍を見て自分も頑張ろうと思いました」と、中村の姿に励まされたという。
赤川氏は現在、営業マンとしての仕事をしながら、軟式野球チーム「東京ヴェルディ・バンバータ」で国体天皇杯の優勝を目指している。「野球との関わり方は変わりましたが、これからも(野球に)携わっていきます」。進む道は違えども…。時を経た今でも2人は「戦友」であり「支え」となっている。
☆あかがわ・かつき 1990年7月31日生まれ、宮崎県宮崎市出身。左投げ左打ちの投手。宮崎商から2008年のドラフト会議でヤクルトに1位指名されプロ入り。3年目にプロ初勝利をマークすると、クライマックスシリーズでも勝利投手となった。15年オフに現役を引退後、同年11月から建築資材関係企業・株式会社ナスタに勤務している。働きながら軟式野球のクラブチーム「東京バンバータ」(現東京ヴェルディ・バンバータ)に加入。背番号は「47」。プロ通算76試合に登板し、14勝20敗。球宴出場1回(12年)。













