1990年代初頭、当時では日本屈指の正統派ルチャドーラとして活躍したのが吉田万里子だ。

 88年に全日本女子プロレス入門。デビュー当初は清楚なルックスで堅実なファイトを主としていたが、91年にメキシコCMLLが女子部を設立して全女と業務提携を結ぶと、92年からメキシコに短期遠征。ルチャリブレの技術を学ぶや、他の選手よりも吸収が早く、帰国後は三角跳びプランチャなど「マリポーサ殺法」と呼ばれた高度な各種空中技で注目された。

 92年4月には全日本シングル選手権を獲得するも、同年10月に頸椎損傷の重傷で約1年10か月に及ぶ長期欠場を強いられる。この間にUインターの試合を観戦したことがきっかけとなり、空中技主体から関節技主体へファイトスタイルを変えることを決意。“関節の鬼”藤原喜明組長に師事する。

「息吹」旗揚げ後は厳しい関節技ファイターに転身した
「息吹」旗揚げ後は厳しい関節技ファイターに転身した

 復帰後は複雑な関節技の「クモ絡み」「カベルナリア」などを得意とした。95年3月には玉田りえとのコンビで全日本タッグ選手権も獲得した。97年2月にはCMLLの日本ツアーにも参戦。レディ・アパッチェからCMLL世界女子王座を獲得する快挙も達成した(99年にCMLL女子部が休止になったため返上)。

 97年9月にはアルシオンへ移籍すると、ルチャ殺法を捨てて完全な関節技ファイターに変身を遂げ、アルシオンの看板王座となる「クイーン・オブ・アルシオン」王座決定戦をキャンディー奥津と争い勝利。見事初代王者となった。2003年にはAtoZに移籍。翌年からフリーとなり米国を主戦場とした。

 05年6月からはプロデュース大会「息吹」を開催。新たなタイプの大会としてモンゴルから選手をスカウトするなどして女子プロ界に新風を吹き込んだ。08年から第一線を退き、スポット参戦やレフェリー、インストラクターなどを務めていたが、17年11月19日の新宿フェイス大会で引退した。

 引退後は運動機能治癒改善法フェルデンクライスメソッド国際公認「フェルデンクライス・プラクティショナー」の資格を取得。20年からは地元の広島・尾道市に居を移し、プラクティショナーとして活動している。