【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(34)】
東尾修監督率いる西武との頂上決戦となった1997年の日本シリーズは、4勝1敗でヤクルトに軍配が上がりました。唯一の黒星は僕が先発して1回5安打5失点(自責3点)でKOされた第2戦ですが、最終的には延長10回の末のサヨナラ負け。ヤクルトは14安打の猛攻で一度は最大5点のビハインドをはね返すなど、投手も野手も意地を見せました。
そんな第2戦の試合中継の中で、お茶の間をざわつかせるシーンが流れていたことを、あとになって聞きました。初回にKOされて応援に回っていた僕が、ベンチでニヤニヤしていたというのです。もちろん笑い話をしていたわけもなく、照れ隠しとか相づちぐらいの意味だったのかもしれません。しかし、視聴者には「KOされたのにヘラヘラしている」と見えたようです。SNSの発達した現在ならアッという間に拡散され、マウンド上以上の大炎上になっていたことでしょう。
同年の日本シリーズは5試合で終わってしまったため、先発陣で2度目の登板があったのは、初戦に完封勝ちし、中4日で第5戦の6回から救援に回った石井一久だけ。結果的に野村監督にとって最後の日本シリーズ、最後の日本一となった舞台で、僕に名誉挽回のチャンスは巡ってきませんでした。今になって思うと、この時を境に僕を守ってくれていた“野球の神様”がどこかに行ってしまったような気がしています。
翌98年1月には左投手の加藤博人と捕手の鮫島秀旗を誘い、トレーナーも引き連れてグアムで初の海外自主トレに臨みました。これも、いっぱしのプロ野球選手っぽいことをしたかっただけなのかもしれません。その時は良かれと思ってやっているわけですけど、考えが甘かったのでしょう。練習も中身のないものだったように思います。
2月に入ると肩やヒザに違和感を覚え、米アリゾナ州ユマでの1次キャンプの最後には痛みを感じるようになりました。それでも我慢して投げていたのは、この2年間で築き上げたチーム内での地位を失いたくなかったからです。首脳陣にバレないよう、チームメートから勧められた治療院に通ったりもしました。
オープン戦終盤のダイエー戦で5回を1安打に抑えてどうにかメドが立ち、開幕後は“裏ローテの1番手”として2カード目の初戦、4月7日の横浜戦に先発。8回途中2失点でチームのシーズン初勝利を挙げることができました。しかしそこから僕は3連敗。球速は出ていても最後の一押しがなく、スライダーにもキレがない。象徴的だったのが被本塁打数で、15勝した前年が15本だったのに対し、98年は登板12試合で14本と打たれまくりました。
5月に入って広島戦での完投勝利など2勝したものの右肩は悲鳴を上げていて、鎮痛・抗炎症剤のボルタレンが精神安定剤になっていたほど。そうして迎えた6月21日の札幌・円山球場での中日戦で僕の右肩は限界に達しました。












