【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(28)】ダイエーからヤクルトに移籍した1996年、僕はプロ初の2桁勝利となる12勝を挙げることができました。同時に12敗しているので反省点も多かったのですが、投手コーチの小谷正勝さんには「1年間、ご苦労さん」と声をかけていただきました。

 年間を通じて一軍で戦力になれたのはプロ6年目で初めてのこと。首脳陣からこういう言葉で労をねぎらっていただいた経験は過去になく、とてもうれしい気持ちになったことを覚えています。シーズン最終盤の10月8日には次男も誕生し、充実した1年を過ごすことができました。

 周囲からの見る目や扱いも“一軍クラス”になったように思います。登板したのは1試合だけでしたが、ドジャースの野茂英雄やピアザ、オリオールズの鉄人リプケン、47本塁打、150打点で打撃2冠のロッキーズのガララーガといったそうそうたるメンバーがそろった日米野球に呼ばれ、秋季キャンプではほとんど投げることもなく体のケアがメインでした。

 オフの契約更改交渉の前には若手選手から「3000万円以下だったらサインしないでくださいよ。僕らの契約にも関わってきますので」と“銭闘隊長”に任命されました。チームは前年の日本一からリーグ4位と低迷しただけに、球団側から「田畑がこの金額でサインしたんだから」と言われるのを恐れたのでしょう。結果的に投手陣の中では「最高の評価」をしていただきましたが、こういう形でチームメートから期待を寄せられたのも初めての経験です。

 年明け97年1月の自主トレも、ダイエー時代から仲の良かった同学年で日本ハムの下柳剛、ダイエーに残って頑張っていた足利豊と沖縄で行いました。トレーナーにもついてきてもらい、計画的に体づくりするのも「なんか一軍っぽい」と思ったものです。

 ヤクルトで2度目の春季キャンプは、あまり記憶にありません。何か一つぐらい提供できるネタがあれば良かったのですが、何も思い浮かばないのは順調だったからでしょう。米アリゾナ州のユマから帰国した後も、滞りなく紅白戦やオープン戦での登板を経て、3月中旬過ぎには同年から一軍投手コーチに就任された球団OBの尾花高夫さんから開幕2戦目、4月5日の巨人戦(東京ドーム)での先発を言い渡されました。

 いくら前年にチーム最多の12勝を挙げていたとはいえ、僕はダイエーに在籍していた95年までの4年間で2勝しかできなかった投手です。「こんな大事な試合で投げさせてもらってもいいのか」と思う一方で、気合も入りました。移籍1年目に「古巣を見返す」ことをモチベーションに奮起した僕は「昨年の成績がフロックではないことを証明したい」と97年シーズンに臨みました。よもや絶頂期が2年で終わるなど知る由もなく――。