【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(24)】前年の日本一監督、ヤクルト・野村克也監督は1996年の球宴で率いるセ・リーグのメンバー選び、特に監督推薦で投手を誰にするかで苦慮していたようです。本番まで約10日ほどと迫った段階で、身内の勝ち頭は僕と山部太、テリー・ブロスの6勝とインパクトに欠け、選出ゼロとなればライバル球団から「戦力の温存だ」と非難されかねない。そんな中で抑えの高津臣吾、山部とともに僕も選んでいただきました。

 おそらく選出理由は成績だけではなかったと思います。球宴は92年から五輪イヤーに限り3試合制となり、3試合目の開催地はフランチャイズではない地方球場とすることになっていました。この制度で最初に開催地となったのが宮城球場。それから4年後の会場として選ばれていたのが、僕の故郷である富山県の富山市民球場でした。

 富山市の市制100周年の記念事業の一つとして建設され、北陸地方初の全面人工芝の野球場として92年夏に完成。公募で決まった「アルペンスタジアム」の愛称でも知られている球場です。

 富山での開催は僕がプロ入りする前から分かっていて、知人と「そんな晴れの舞台で投げられたらなあ」という話もしていました。まさか現実になるとは夢にも思っていなかっただけに、支えてくれた家族やダイエー時代の監督、コーチも含めた関係者には感謝しかありません。

 実は野村監督からは事前に、しかも間接的に選出をほのめかされていました。あれは監督推薦のメンバーが発表される2日前、球宴第3戦が開催されるアルペンスタジアムで行われた中日戦の試合前のことです。

 僕の登板は翌7月10日の石川県立野球場での同カードだったのですが、両親をはじめとした親族や親戚、地元の知り合い約280人が観光バスに分乗して応援に来てくれましてね。その際に両親と妻がベンチ裏でごあいさつさせてもらったのですが、野村監督は登板日が1日ずれてしまったことをわびたうえで「楽しみにしといてください」とサプライズ予告をしてくれたそうなんです。

 96年の球宴は第3戦が地元富山で開催されるというだけでなく、第1戦の舞台も僕の古巣で、妻の故郷でもある福岡でした。こんな偶然ってあるものなのかと、幸運の連続に怖ささえ感じたほどです。

 振り返って、このころは本当に野球をしていて楽しかったです。金沢での中日戦は7回2失点で負け投手となり6勝7敗と黒星が先行してしまいましたが、日本一チームで先発ローテーションの一角を担うなんて1年前には想像さえできなかったこと。職業としての野球を楽しめるのは、やはり結果が伴ってこそなのでしょう。